新海誠監督の最新作『すずめの戸締り』を観てきました。
※ネタバレを含むので、映画を観た後に読んでください!
『すずめの戸締り』には、今までの新海誠監督作品から受け継いでいる部分と、今までの作品とは明らかに違う部分が混在しています。
ということで、この記事では、『君の名は』『天気の子』『すずめの戸締り』の共通点と違いについて書いてみたいと思います。
△ 公式サイトより
はじめに
『すずめの戸締り』を観て感じたキーワードは、「不安」と「不思議」でした。
新海誠監督の作品を観ていて「不安」を掻き立てられるようなことは今までなかったのですが、今回は地震のシーン(そして地震を抽象化したみみずという謎の物体)がたびたび登場することもあり、不安を掻き立てられる場面が多々ありました。
また、『君の名は』と『天気の子』にもファンタジー要素はもちろんあるのですが、今回の『すずめの戸締り』では、ファンタジー要素が強まり、どこか現実離れした「不思議な物語だな」という印象がありました(日本人にとって身近な地震をテーマにしているのになんでだろう...)。
ということで、「不安」と「不思議」の正体を紐解くためにも、『すずめの戸締り』が過去2作品と比べてどう違ってどう同じなのか、綴ってみたいと思います。
『君の名は』『天気の子』『すずめの戸締り』の共通点
- 天災・災害というテーマ
- 世界の裏側で何が起きているのか知らない・信じない世間 vs 主人公という構図
- 大多数を救うために誰かが犠牲にならなければいけないのか?という問い
『君の名は』『天気の子』『すずめの戸締り』の違い
- 天災・災害が美化されていない、生々しく描かれている
- 男性の方が年上(大体新海誠監督の作品は女性が年上のことが多い)
『すずめの戸締り』で伝えたかったことは?
今までの変遷を振り返ることで、『すずめの戸締り』で伝えたかったことはなにかについて、考えてみたいと思います。
『君の名は』では...
- 主人公を救うことで、世界も救われる(一石二鳥)
- 選ばれし人には世界(自然界)を変える力がある
- すでに起きてしまった天災を、過去に戻って防ぐ
『天気の子』では...
- 主人公を救うことで、世界が犠牲になる(でも誰かが死ぬわけではない)
- 選ばれし人には世界(自然界)を変える力があるが、あえてその力を手放す
- 現在進行形で起きている天災を防ごうとするが、結局防がずに終わる
『すずめの戸締り』では...
- 主人公を救うことで、他の誰かが犠牲になる(その結果世界が救われる)
- 選ばれし人には世界(自然界)を変える力がある
- すでに起きた天災は防げないが、これから起きようとしている天災を防ぐ
国民的大ヒットを果たした『君の名は』ですが、そんな『君の名は』に対してもとある批判があったそう。それは...
「災害をなかったことにしちゃうの?なかったことになんてできないよ」と。
その批判を受けて生まれたのが、『天気の子』。
新海誠監督が天気の子に込めた想いについて語ったインタビューでは、このように話しています。
エンターテインメント映画とはいえ、世界がおかしくなってしまいましたという風に映画が始まって、でも最後、世界が元に戻りましたということ自体が無責任なような気がしたんですね。僕たちは僕たちの子供の世代に元に戻った世界を渡せるわけじゃないわけですよ。
ということで、『天気の子』では、災害をそう簡単になかったことにすることはできない、おかしくなってしまった世界をそう簡単に人の手で戻すことはできないということが描かれた上で、それでも前を向いて生きていこうとする人々が描かれています。
そして『すずめの戸締り』では、もう大規模な災害は起きてしまった後の世界、というか災害は日常的に起こるものという世界観。ただ、災害は人の手で防げるものでもないから受け入れるしかないという描かれ方ではなくて、災害を防ぐために開いてしまった扉を戸締りするというお話。
物語に出てくる猫のダイジンが、災害が起きようとしているのに静観している(というか楽しんでいるようにすら見える)様子を見て思ったことは、「気まぐれだな」ということ。そして神というか自然界というものは、ダイジンと同じく気まぐれに災害を起こしているんだな、ということ。
自然界の力は偉大で人の手に及ばない、というメッセージは、『天気の子』にも『すずめの戸締り』にも共通する点だな、と思ったのですが、『天気の子』にしろ『すずめの戸締り』にしろ、とある条件で自然界に影響を与えることができるんですよね。
そのとある条件というのは、人柱の存在。
自然界の力は偉大で人の手には及ばない、だけれど人が生贄(いけにえ)として犠牲になることで、自然界が引き起こす災害を封じることはできるということ。
『すずめの戸締り』に人柱という言葉は出てきませんが、代わりに「要石(かなめいし)」という概念が出てきます。
地震を封じ込めるために、地震を起こす原因である(というか地震そのものである)みみずの上に常駐しないといけない存在(←語彙力なくてごめんなさい)。
言い換えると、地震を封じ込めるために犠牲にならなければならない存在のことです。
『すずめの戸締り』では、猫のダイジン=要石=犠牲者ですが、ダイジンは役割放棄して(というか役割を青年・草太に移転させて)自由に日本中を駆け巡ります。
物語の途中で、ダイジンは役割放棄したのではなく、災害を引き起こす原因となっている扉(後ろ戸)の場所をすずめに案内するために、日本中を駆け巡っていた、という説明が出てきます。しかし、本当にそうなのかな?と思わざるを得ませんでした。
ダイジンは要石で居続けることが嫌になって、自由になりたかったんじゃないか。
大衆のために、地震を防ぐために自分が犠牲で居続けることが窮屈だったのでは?
そう思わざるを得ませんでした。
そして『天気の子』と『すずめの戸締り』の違いを決定づけるものは...
『天気の子』では、主人公の帆高が、人柱となった陽菜を助けます。
天気なんて狂ったままでいい、青空よりも陽菜がいい、と。
しかし『すずめの戸締り』では、主人公のすずめは、要石だったダイジンに、要石に戻るよう諭します。
あなたが要石じゃなくなったせいで草太さんが犠牲になったって言うんですよね。
だからあなたは要石に戻りなさいって。
『すずめの戸締り』を見て「不思議な物語だな」とどこか違和感を感じた理由は、ここにあるのかもしれません。
愛する人を助けるために行動するというメンタリティは、帆高にもすずめにも共通しています。ただ、帆高の場合は陽菜を助けることで直接的に犠牲(人柱)になった人はいないのに対し、すずめの場合は草太を助けることでダイジンが犠牲(要石)になったんですよね。
すずめの場合は、何も草太と引き換えにダイジンを犠牲にしたのではなく、草太と引き換えに自分が要石(犠牲)になるつもりだった。
ただ、結果的に、草太は助かりダイジンが再び要石になってしまった。
『天気の子』では、陽菜を救ったことで世界が犠牲になったとはいえ、直接的に陽菜と引き換えに人柱(犠牲)になった人はいませんでした。雨が降りやまない世界では、洪水で川が氾濫して溺れ死んでしまう人がいたかもしれません。そこにまで想像力を飛ばせていた人は、天気の子を観たあとにもやもやしていたかもしれません。
ただ、少なくとも『天気の子』の「描かれ方」としては、陽菜の直接的な身代わりとなった人がいなければ、あくまでも雨が降り続ける世界でも人々は前向きに暮らしているという前向きな世界でした。
対して『すずめの戸締り』では、草太の代わりに明確にダイジンが犠牲になっている。
しかもダイジンが犠牲にあったあとにダイジンを慈しむシーンが足りない。
要石となったダイジンが、実は他の世界で元気に暮らしている、といった描写もない。
『天気の子』では、明確な犠牲者が描かれなかったものの、『すずめの戸締り』では明確に犠牲者が描かれている。
そしてその犠牲者に対して、主人公が悲しむなり慈しむなりの描写が少ない。
『すずめの戸締り』を観終わったあとに感じた違和感の原因は、大多数を救うためにダイジンが再び犠牲になったという点かもしれません。
『天気の子』では、誰かが犠牲にならなくても世界は前向きに回るという世界観。
一方『すずめの戸締り』では、誰かが犠牲にならないと世界はカオスに陥るという世界観。
『天気の子』では「大雨」が災害なのに対して、『すずめの戸締り』では「大地震」が災害。
大雨によってもたらせる二次被害はあれど、大雨よりも大地震のほうが死を連想させるイメージなので、要石で防げるはずの大地震を放っておくことは大変なこと。
なので、誰かしらに再び要石という役割を背負わせることは物語上必須だったのかもしれませんが、要石で大地震を防げるというそもそもの設定によって、『すずめの戸締り』のメッセージ性がややこしくなっているのかもしれません。
そもそも現実世界では(少なくとも今の人類の力では)、大地震の被害を留めるために色々備えることはできても、大地震そのものを防ぐことはできません。
ただ、『すずめの戸締り』の世界では要石で大地震を防げるという設定があるからこそ、草太の代わりにダイジンが犠牲になったときに「大地震を防ぐために、大衆のために1人を犠牲にすることは正義なの?」という純粋な倫理的なもやもやが生まれることになったんだと思います。
個人的には『天気の子』がとても好きで、『すずめの戸締り』で感じたような倫理的な違和感はあまり感じませんでした。多分その理由は、「大雨による犠牲者が描かれなかったから」だと思います。
もし帆高が誰かと引き換えに陽菜を救ったのだとしたら、もし陽菜を救ったことで別の誰かが犠牲になるシーンが描かれていたのだとしたら、天気の子を手放しで絶賛しきれず、もやもやを感じていたかもしれません(だからといって帆高が陽菜を見殺しにして世界/大衆を救うべきだったと言いたいわけでもありませんが)。
『天気の子』では誰も犠牲にしていない/なっていないように見えるだけで、本当は大雨が続く世界でたくさんの犠牲者が生まれていたかもしれない。『すずめの戸締り』ではダイジンが犠牲になったのがはっきり描かれていたからもやもやしただけかもしれない。
「犠牲者が描かれたか/描かれなかったか」「犠牲者を見たか/見てないか」の違いなだけで、もしかしたら『天気の子』と『すずめの戸締り』で投げかけられているトロッコ問題的な倫理的な問いは、共通しているのかもしれません。
『すずめの戸締り』を「不思議な物語だな」と感じた理由は、新海誠監督の前作である『天気の子』とメッセージ性の違いを感じたからかもしれません。
天気の子:
「わたしたちの世界は、誰かが犠牲にならなくても成り立つよ」
すずめの戸締り:
「わたしたちの世界は、誰かの犠牲の上に成り立っているんだよ」
よく「言葉には表せない」とか「言葉にするにはもったない」というセリフを聞きますが... この考察を書いていて、感情は言語化しなくてもいいけど、違和感は言語化したほうがいいと思いました。違和感を言語化しようとすることで、考えが深まるから(←当たり前のことを言う人)。
さいごに|『天気の子』にもっとも感情移入した理由
基本的に、自分が経験していないことに、感情移入はしづらい。
主人公が大変な思いをしていたとして... たとえばリストラに遇ったとして... 同じような経験をしていない人は、想像力を働かせることで感情移入できたとしても、そこから生まれてくる言葉は「可哀そう」とか「大変だろうな」であって、「辛い」とか「苦しい」ではない。
「天気の子」にわたしがすごく共感した理由は、「俺はただ・・・もう1度あの人に、会いたいんだ!」という帆高くんの言葉に尽きます。
主人公の帆高くんと同じように、「どうやって会えるのかさえわからないけど、それでも会いたい」という切実な思いがわたしの中にもあって。
自分の心の奥底で眠っていた想い、それも口にしてはいけない想いを帆高くんが代弁して口にしてくれたから、すごく帆高くんに共感しました(もはや帆高くんに自分の魂が乗り移ったんじゃないかと疑うレベルで)。
そして恐らく、多くの人は「あの人にもう1度会いたい」と思ったことがある。
決して恋愛に限らず、離れ離れになってしまった家族だったり、今は亡き故人だったり。
「あの人にもう1度会いたい」というのは、多くの人が共感できる普遍的な気持ち。
だからこそ、天気の子は、多くの人の心に響いたんじゃないかと思います。
対する『すずめの戸締り』は、地震がテーマでした。
地震は日本人にとってすごく身近という意味で、地震が起こるかもしれないという恐怖については感情移入できるというか、もはや日本人の感情そのもの。
今28歳のわたしが高校生のときに経験した東日本大震災についても、多くの日本人が経験した共通体験です。
ただ、共通体験とはいえ、震源地の東北で実際に地震を経験した人、中でも地震で大切な人を亡くしてしまった人と、遠く離れたところで揺れを経験した人、そしてTVで津波による大被害を目の当たりにしたものの、直接的に被害を受けなかった人では、3.11の地震に対する感情というかなんというかが色々違ってくると思います。
『すずめの戸締り』でも、地震によって母を亡くしたすずめの成長物語が描かれていますが、天気の子の帆高くんの心の叫びに匹敵する切実なセリフはなかったように感じました。いや、もしかしたらあったのかもしれませんが、ただ単にわたしの境遇的に、すずめの戸締りよりも天気の子の帆高くんの方が近いというか共感の度合いが深かったのかもしれません。だから、心をえぐられるようなセリフに気づかなかっただけなのかもしれません。
『天気の子』の災害は現在進行形で起きていることで、陽菜ちゃんに降りかかっている「世界を大雨から救うために人柱になってしまった」という災難も現在進行形で起きていること。
だからこそ、帆高くんからは「俺はただ・・・もう1度あの人に、会いたいんだ!」という帆高くんの切実なセリフがリアルタイムで出てきたのかもしれません。
一方で、『すずめの戸締り』は、すでに終末後の世界観(大きな災害(地震)はすでに起きてしまった世界)で、震災は過去のものとなっている。すずめのお母さんも、すでに亡くなってしまっている世界(すずめが試行錯誤したところでお母さんを生き返らせることは不可能)。
そんな世界では、帆高くんのような切実なセリフは生まれづらいのかもしれません。
そこで、今回『すずめの戸締り』を観て感じたことは...
映画にとって、「いかに観客にとって遠いものを自分ごと化させて感情移入させられるか」が重要、ということ。そして感情移入させるためには、顧客が経験したことのないものを、顧客が経験したことのあるものにすり替えて普遍化するということ。
『すずめの戸締り』でも、共感できる要素はたくさんあったのですが、共感が感情移入までには到達しなかった感覚があります。
お母さんが亡くなってしまった3.11以降、すずめの絵日記は黒く塗りつぶされていて。その絵日記をすずめが泣きながら捲るシーンがありました。
あのシーンはなんだかすごくリアルと言うか、胸をぎゅっと掴まれるものがありました。
ただ、震災で親や兄弟、大切な人を亡くしてしまった人と、そうでない自分とでは、たぶん感じかたが違うんだろうなあと...
自分の感受性や想像力の問題なのかもしれませんが、自分の境遇的に、すずめの戸締りよりも天気の子に感情移入した。というすごくシンプルな話なのかもしれませんが、脚本を学ぶ身として思ったことは、主人公とは違う境遇にいる観客にも、主人公に感情移入して主人公と同じように悲しんだり喜んだりさせることの難しさです。
...
ということで、色々感じることはありましたが、3年越しに新海誠監督の作品を観れて、とても光栄でした!
圧倒的な映像のクオリティで、本当に監督とスタッフのみなさまには頭が下がります。
この記事で述べたメッセージ性等々について思うところはありましたが、「3.11の東日本大震災を忘れないために、今この作品を作りたいんだ」という新海誠監督の想いは強く強く伝わりました。
ということで、みなさんもぜひ、劇場で観てみてください!
劇場がおすすめです!(小さいスクリーンではもったいない映像美なので)
ではでは~!
最後まで読んでくださってありがとうございました!
▽よかったらこちらもどうぞ!