北極星のみつけかた|yuzubaby

自称宇宙人のゆとり世代が書く雑記ブログです。

北極星のみつけかた

23歳でやっと気づいた「生きる意味探し」より大切なコト

自分の生きる意味ってなんだろう。 

誰しもが考えたことがあるであろうこの問いに対して、答えに辿り着けた人はどれぐらいいるのでしょう。ちょっと博識を装って答えるとしたら「子孫を残すこと」かもしれないし、ちょっと宗教に代弁してもらって答えるとしたら「善良な人になって天国に行くこと」かもしれない。

 

でも、なんかしっくりこない。

 

 

I. 自分の生きる意味はわかっていた(はずだった)

今までのわたしは、自分が生まれてきたことには何かしらの意味というか理由があるんだろうと思っていました。小学校時代のときにUNICEF職員からアフリカの子どもたちのことを聞いてから、いわゆる国際協力に関心をもち始め... 日本の外に広がる世界に興味津々で、小学校を卒業してからは中高一貫のカナダ系インターナショナルスクールに6年間通い、将来は国際協力の分野で働くんだとずっと思っていました。

 

当時、人生とは何かしらの託された使命を全うするためのものだって思っていました。母子家庭だったため、祖父母が学費を払ってくれたおかげでインターナショナルスクールに進学して学ぶことが楽しいと思えるようになり、英語が話せるようになって人生の選択肢が増え… そして大学2年次には高円宮クイーンズ大学留学奨学金のおかげでずっと憧れていた留学に行くこともできました。だから、わたしにとっての使命は「学びたくても学べない子ども、頑張りたいと思っていても頑張る機会がない子どもに機会をもたらすこと」だとずっと思っていました。今度は自分が機会をつくる側になりたいなって。高校時代は「ボランティアを40時間以上しないと卒業できない」という類稀なる校則のもと、福島の子どもたち向けの自然学校プログラム「ふくしまキッズ」でボランティアをしたり、大学時代は紛争解決や国際開発をテーマに学んだり、留学先のクイーンズ大学(@カナダ・オンタリオ州)ではアジアとアフリカの教育支援をしているNGORoom to Read」のクイーンズ大学支部で募金キャンペーンの一貫としてカナダの極寒の中テントで1週間寝泊まりをしたり...

 

まあ、いろいろとやっていたわけなのですが、国際協力の仕事を志す中で4つの虚しさに遭遇しました。国際協力について語れるほどその世界にどっぷり浸かったわけではないけれど、その世界にどっぷり浸かることを踏みとどまってしまった理由はこの4つの虚しさが垣間見えた気がしたからです。よく「国際協力なんてキレイゴトだ」って言われますよね。このキレイゴト説を自分なりに要素分解してみたところ、国際協力には①求められていない虚しさ、②応えられない虚しさ、③意図しない結果になったときの虚しさ、④遠くの人を気にかけて身近な人を疎かにする虚しさがつきまとうからじゃないかと思ったんです。

 

もし誰かの役に立つと信じてやっていても、その人にとってはありがた迷惑だったら?

もし誰かが求めていることをやっていても、自分が無力でその人の期待に応えられなかったら?

もし誰かの役に立つと信じてやったことが、意図しない結果を招いたら?

もしくは遠くの誰かのことを気にかけているうちに家族との時間をそっちのけにしてしまっていたとしたら?

 

「生きる意味=誰かのために達成すべき使命」と考えることには、いろいろな危険があるんじゃないか。誰の何の役にも立たないことを空回りして続けたり、誰からも感謝されなかったら無気力になったり、誰かの役に立てたとしても身近な大切な人を疎かにしてしまったり...何かしらの使命感をもって生きることは生きがいにつながるかもしれないけれど、そもそも誰からも必要とされていない使命感のために空回りしたり、誰かから必要とされていたとしても身近な大切な人を後回しにしたりする人生は送りたくない。

 

自分にとっての生きる意味とは「誰かのために使命を全うすることではないかもしれない」と気づいたとき、自分にとっての適職は「国際協力ではないかもしれない」と思ったとき、わたしは生きがいを見失った気がしました。

国際協力への想いがくすぶって、将来何をしたらいいのかわからなくなって、就活時代は迷走しました。利益をもっと上げるとか商品をもっと売るとか、人の生活を支えるためには必要なんだろうけど、全然心に響かない。そんな中感じたことは、「国際協力の仕事はキレイゴトかもしれないけど、だからといって「自分と周りさえよければいい」思考に陥ることは同じぐらい虚しい」ってこと。だって、3.11の震災のときに膨大な募金が世界各地から集まったわけだけど、募金してくれた人たちは全員被災者の友達だったわけじゃない。遠くにいる知らない人のために募金をしてくれた。他の人のために自分を犠牲にして働く必要はないけれど、人のために自分にできることをすることは、やっぱり素敵なことだと思う。遠いとか近いとか関係なく。そんな想いを抱えながら就活で迷走する中、息抜きしに縁もゆかりもあるカナダへ行ったときのことです(←ゆとり世代ですよね。でもカナダは負けじとゆとりな国ですので、何が大丈夫なのかはわかりませんが大丈夫です!)。カナダの本屋さんで出会った「Buddha Doodles」という本に、こう書かれていました。

 

"Thousands of candles can be lit from a single candle, and the life of the candle will not be shortened. Happiness never decreases by being shared."

 

なんとまあ(当時のわたしの反応です)。

※興味がある方もない方も、ぜひGoogleまたはAmazonでBuddha Doodlesを覗いてみてください。覗いてくださった方には、もれなく本をプレゼント!(したいところですが、個人情報を聞くわけにもいかないので、夢の中でプレゼントさせていただきます...)

 

国際協力という形ではなくても、自分にできることをやりたい。

 

そんな想いを抱えて帰国し、就活の日々に戻る中で、ソーシャルビジネスの存在を知りました。人のために身を捧げるというより、人のために自分にできることをしつつ自分のためにも利益をちゃんと上げるところがまさに上記の名言を体現しているようでいいなあと思い… ビジネスの素養を身につけるためにはビジネスを知らなきゃ!という安直な考えから、いろいろな業界の経営者と携わる機会を得られるコンサルタントを志すようになりました。そして苦戦の上めでたく外資系ITコンサルティング会社から内定をもらって就職するも…

 

ソーシャルビジネス系の仕事を新卒からやっていたら考えが違っていたのかもしれないのですが、社会人になって仕事を始めてみたものの、自分の心が震えて、鳥肌が立って、心の底から「これが本当にやりたいことだ!」って涙腺が脆くなるような瞬間は感じたことがないんです。でも、それってなんかもったいないと思ってしまうんです(←ゆとりアゲイン)。毎朝9:30に出社して12時間後ぐらいに退社する… それ以外にも人生でやりたいことはまだまだたくさんある。やりたいことに向けて力をつけるためにこの会社に入ったけれど、やりたいことのためにこれを勉強してあれを身につけてってしてたら、人生終わっちゃう。そう思いました。
  

II. 楽しむだけ、頑張るだけの人生はなんでしっくりこないんだろう

「人生楽しんだもんがち」

本当にその通りだと思います。

ただ、本当に人生を楽しめている人がどれだけいるのでしょうか。

 

ちょっと前にはリア充って言葉が流行って、最近はインスタ映えって言葉が流行って… 自分の人生を周りにアピールする機会が増えてきて、写真を見る限りすごく充実してそうに見える。でも、なんだか充実していなかったとしても無理矢理にでも充実させようとしている人が増えている気もする... わたしには超能力も何もないので人が何を感じて何を考えているかなんてわからないし、そんな偉そうなことを言える立場ではないけれど、少なくともわたしの中ではいわゆる「娯楽」だけに満ち溢れた生活に虚無感を感じていました。

 

娯楽の定義は人それぞれ。たとえば仕事帰りにカラオケでオールしたり、朝まで居酒屋で呑み明かしたり、休日におしゃれなレストランで友達と値段が高めのランチに行ったり… どれも楽しいはずのことで、そんな風に平和に暮らせている人たちは幸せなはずで、そんな生活が送れることに感謝すべきはずで…

 

なんとか自分を納得させようとするものの、そんな「はず」だらけの人生に何か違和感を感じる日々。

 

「平凡な人生が1番。平凡な人生こそ幸せ。平凡な人生を送れるならそれでいい。」

そう思う人もいるだろうし、そんな平凡の中にこそ「身近すぎてありがたみを忘れてしまっているけれど、本当は尊い幸せ」なんてものが混ざっていると思います。

 

でも… なんか違う。

 

娯楽に埋め尽くされた人生だけじゃ、なんか物足りない。物足りないというか、逆に謎の虚無感を感じる。娯楽で何かを誤魔化そうとしてる気がする。

なんかこれだけいろいろ言葉を並べるとただの変人みたいですね…笑

まあとにかく、謎の違和感につきまとわれていたわけです。

 

もっとビッグな何かをやりたい?

歴史に残る人物になりたい?

みんなからスゴイと褒め称えられる人になりたい?

 

娯楽に対するこの違和感は、ただの「社会に認められる人になりたい」的な承認欲求からくるのか、それともただ俗にいう娯楽っていうものにそんな魅力を感じないだけなのか。

 

社会人になってからちらほら聞く言葉。

「何のために働くんだろう?」

そして仕事帰りには居酒屋で呑み明かすサラリーマン。

熱く語っている人もいれば、愚痴をこぼしている人もいる。

「居酒屋で愚痴をこぼす日々は本当に楽しいのだろうか。」

「何のために働くのだろうか。」

そしてまた思い浮かぶこの問い。

 

「そもそも何のために生きるんだろう?」

 

運命が予め決まっているとは思わないし、神様に「地球に行ってこい!」と言われて生まれてきたのか自分の意思で「地球面白そうだからちょっと行ってくるわ!」と言って生まれてきたのかはわかりません。だからもともと自分に託された「人生のミッション」的なものがあるのかはわからなくて、人生の意味とはなんぞやって質問には結局のところ正解なんてない。あるかもしれないけれど答え合わせができないのなら、自分の中で見出した答えが正解かどうかなんてわからない。

 

そこで思ったことは、「人生の意味」がわからないなら、「人生の意義」を自分で何かしら見出すしかないんだなって。

 

わたしが娯楽に対してなんとなく違和感を感じていたのは、

「生きる意味ってなんだろう?」→「生きる意義は自分で見つけるしかない」→「じゃあとにかく楽しもう」→ 娯楽漬けの毎日

の2番目と3番目の矢印の部分にしっくりこなかったからなのかなあって。

 

「生きる意義は自分で見つけるしかない」→「じゃあとにかく楽しもう」

まずここの矢印について…

人生を楽しもうってスタンスは素晴らしいと思います。でも、「生きる意義=楽しむこと」って決めつけたら、逆に人生において生きづらい瞬間が増える気がして。だって、人生は山あり谷ありなわけで、必ずしも楽しいことばかりじゃない。辛いことだって虚しいことだって起こる。ってことは、この式の中で右側の「楽しむこと」が成り立たなくなったとき、左側の「人生の意義」を見失ってしまう。生きる意義の中に「楽しむこと」は絶対に含まれていると思うけれど、「生きる意義=楽しむこと」と考えるのはちょっと危険かもしれない。

 

「じゃあとにかく楽しもう」→ 娯楽漬けの毎日

次にここの矢印について…

泣いても笑ってもどうせ過ぎる24時間なら、泣いても笑ってもどうせいつかは終わりが来るのなら、笑っていたいし楽しんでいたい。切実にそう思います。ただ、本当に人生を楽しいと思って生きている人がどれだけいるかと考えたら… 超能力者ではないので答えはわかりませんが、少なくともわたしは「心の底から人生を楽しむこと」って結構難しいな、と感じることがあります。

人生にも感情にも波はあるもので、楽しいときもあれば落ち込むこともある。それでいいと思います。ただ、大人になるにつれて、社会人になるにつれて、「心の底から人生を楽しいと思える瞬間」が減っていく気がして…

 

大好きな人たちとご飯に行ってくだらないことで爆笑することは好きだけれど、大勢の飲み会で誰かの噂話や愚痴をこぼしながら二日酔いで潰れることには魅力を感じなくて。歌うことは好きだけれど、カラオケでオールをして周りを盛り上げるために無理して馬鹿騒ぎすることには魅力を感じなくて。新しい人と出会うことは好きだけれど、合コンに行って周りよりも目立とうと自分をよく見せようと躍起になることにも魅力を感じなくて。

ちょっと堅苦しいのかもしれませんが、本当に楽しかったときって、その後もあたたかい余韻に浸れるのですが、本当は楽しくなかったときって、なんだか虚無感に浸ってしまうんですよね。娯楽が本当に純粋に楽しいものなら素敵なんですが、なんだか「周りに合わせて無理する娯楽・楽しいはずだと自分に言い聞かせる娯楽」もそこそこ多い気がします。

 

「だったら自分が楽しいと思えることをすればいいやん!」

 

そんなツッコミを今くださった方、本当におっしゃる通りです。ありがとうございます。

ただ、今度は「自分が本当に楽しいと思えることってなんだろう」に陥るんですよね。居心地のいいおしゃれなカフェを開拓したり、夜に音楽を聴きながら散歩したり、友達と他愛もない話をしたり…やっぱり何か物足りなさがつきまとうわけです。

 

ああもうなんだかめんどくさいですね。笑

 

「じゃあ… 仕事に生きればいいんじゃない?」

そう思われた方、わたしも前はこんな感じでした。

小学校時代は勉強が嫌いだったものの、中学生になってインターナショナルスクールに通い始めてからは、受け身の授業ではなく生徒が自ら発表をしたり質問をしたりする参加型の授業が楽しくなり、成長することにやりがいを感じ、とにかく勉強、勉強、勉強… これはこれで自分を成長させてくれた貴重な経験であり、後悔は何もないです。ただ、留学を通じて家族のもとを離れたとき、いかに自分が「成長」に囚われすぎて家族との時間を疎かにしていたかに気づき… そして就活中の自己分析をする中で、ある日ふと思ったんです。

 

「成長の先に何があるんだろう」って。

 

成長することは自分の肯定感アップに繋がったり人生への満足度アップなんかに繋がったりしますよね。ただ、人生最後の瞬間に人生を走馬灯のように振り返ったとき、真っ先に思い浮かぶのは、過去に自分が勝ち取ったトロフィーや実績じゃなくて、きっと家族だったりパートナーだったり親友だったり、とにかく自分にとって大切な人のことだろうなって。そう考えたとき、成長もよいけれど、仕事もよいけれど、それらにまっしぐらになりすぎて周りの人との時間を疎かにしたくないと思いました。

 

「仕事はできるけれど家庭は崩壊している。」

 

これはなんだか虚しい現象だなって感じてしまうのです。仕事が本当に楽しいのかもしれないし、家庭環境が芳しくないから仕事に注力しているのかもしれないし… ただ、なんとなく虚無感を感じてしまう。

 

娯楽に走る人生も、仕事に走る人生も、なんだか面白くない。

 

なんでだろう。

 

わたしにとっての生きる意義ってなんだろう。

 

うーん。

 

うーん。。

 

うーん。。。

 

III. 「なぜ生きるのか」よりも「どう生きたいのか」

いろいろ考えた結果、生きる意味を探すことって、なんだか大海原で迷った船人が真っ暗闇の中で北極星を探すことに似ていると思いました。

 

「は、何言ってんだコイツ。」

って声がどこかから聞こえてきた気が… いや、健全な人間としてのリアクションだと思います(もちろん他のリアクションをなさった方も健全です)。

 

北極星を探すとはなんぞや。」

って声も聞こえてきた気がするので、お答えしますね(そんなこと聞いてないぜって方、読むか読まないかはあなた次第!どちらにせよここまで読んでくださった方は、仏レベルの忍耐力保持者認定いたします、ありがとうございます)。

 

なんだか生きる意味について考えるときって、大抵モヤモヤしているときな気がするんです。

 

そうですそうです、モヤっとボールが頭の中で飛び交っているとき。

「毎日辛くてもう疲れた。そもそも俺ってなんのために生きてるんだっけ?」

「毎日不自由なく生きているけど、なんかこのままでいいのかな。そういえばわたしってなんのために生きてるんだろう?」

 

娯楽に走る人生も、仕事に走る人生も、なんだか面白くない。

 

頭も心もモヤモヤしているときに生きる意味を探そうとするのは、モヤモヤした霧の中から抜け出すための指針を探しているから。

 

たとえば某有名なハリウッド映画でパイレーツの主人公が大海原で迷ったとき、北極星を目指せば必ず陸に辿り着けますよね。そのパイレーツが船上で生まれ、船上でしか生きられないとします。「そもそもなぜ大海原を旅するのか」を考えたところで、納得のいく答えはなかなか見つからないかもしれないですよね。自分なりの答えを考えることはできるけれど、荒波に苛まれたとき、「なぜこんな大変な思いをしてまで俺は船旅をしなくちゃいけないんだ」って意気消沈するかもしれない。そんなときに役立つのが、意味探しではなく指針探しだと思ったんです。

 

「指針=北極星

 

「いや、普通に指針って言えよ。」

って思われた方… ナイスツッコミありがとうございます。ちょっと調子に乗った言葉チョイスをしてごめんなさい。とにもかくにも、人生という大航海において遭遇するあらゆる困難の中でも迷わず進み続けるためのヒントが欲しくて、人は正しい方向に導いてくれる北極星を探すのではないでしょうか。

 

毎年恒例!思いの丈を英語で表現してみると...

北極星の直訳がTrue Northではないことは承知です。でも、真北っていうとなんかしっくりこないので、日本語では北極星って言わせてください笑

 

"True North gives you an invincible belief about yourself and your life. Even when you’re down, you just have to look up the sky and follow it because you know that you’re in a right direction no matter what."

 

え、抽象的すぎてよくわかんない?

 

ちょっと補足すると…

 

「生きる意味」ではなく「生きる指針を探す」

 

         || 

 

「なぜ生きるのか」ではなく「どう生きたいのか」を考える

 

「なぜ生きるのか」

社会人になってから考える機会が多くなったこの質問は、もろい気がします。

誰かのために生きる、目標を達成するために生きる...

こういった目的・目標を掲げることは大いに素晴らしいことですが、

もしその誰かがいなくなったら?目標が達成できなかったら?

人は生きる意味を失って、生きる希望までもを失ってしまうのではないでしょうか?

もちろん「誰か」や「何か」を失う度に代替えを見つけようとすることはできるかもしれないけれど、失ったものが本当に大切だったとしたら、なかなか代わりを見つけることは難しいのではないでしょうか。

 

「どう生きたいのか」

この質問はどうでしょう。

生きること自体に疑問を投げかけるのではなく、生き方に疑問を投げかけていますよね。

生き抜くことを前提とした上で、いかに生きていたいかを問う。

もしかしたらこう考えている方もいらっしゃるかもしれません。

「何のために生きるのかとどう生きるのかって、結局は同じなんじゃないの?だって前者の答えが「家族と平和に田舎で暮らすために生きる」だったとして、後者の答えが「家族と平和に田舎で暮らしながら生きる」だったとするよね。でも結局その最愛の家族がいなくなってしまったとしたら、生きる意味も生きる指針も見失っちゃうんじゃないの?」と。

うーん。

鋭いですね。

確かにそうかもしれませんね。

ただ、なんとなく「生きる意味を見失う」って絶望的な響きですが、「生きる指針を見失う」っていつかはまた復活できそうな響きがしませんか?(え、しない?)

たとえばまたパイレーツの話に戻りますが...

大波に襲われたとき、船のキャプテンが「大航海の意味を見失って舵取りをやめる」事態が発生したら、もう元も子もなさそうですよね。

でも、キャプテンが「どの方向を目指して進めばいいのかを見失う」事態が発生しても、キャプテンが舵を握り続ける限り、雲が晴れて再び北極星が見えるようになるのを待てばなんとかなる気がしますよね。少なくとも荒波を切り抜ける希望は保ち続けられますよね。

どんなに嵐の中でも北極星は常にそこにあって、雲が晴れればいつかはまた北極星が見えるようになるように、どんなに辛いことが起きても生きる指針(=どう生きるのか)は常にそこにあって、心のモヤモヤが晴れればまた見えるようになるもの。

 

「ちょっと今から仕事やめてくる」

↑ あ、わたしの決意ではなく映画のタイトルですよ!

この映画の中で、すごく印象的な言葉がありました。

 

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"Hope is always there. You just lose sight of it."

 

希望はなくならない、ただ見えなくなるだけ。

 

なんとまあ!(本日2回目)

 

生きる指針もこれと同じで、見えなくなるだけでいつでもそこにある。

 

そんなものだと思っています。

 

「生きる意味」は状況によって成り立たなくなるかもしれないけれど、「生きる指針」は周りになんと言われようと何が起ころうとなくならないもの。「生きる指針」に対する絶対的な正解がない中で、模範解答があるとしたら、それは自分の外にある外部的要因ではなく、自分の内にある内部的要因をもとに編み出された答えなのかな、と思っています。

 

まあ、曖昧な定義ですが、わたしは生きる意味や生きる意義ではなくこの「生きる指針」について考え始めてから、いろいろと心が軽くなった気がしました。

 

「なんとなく言いたいことはわかったけど、そんな簡単に生きる指針なんて見つからないよ!」

 

そう考えている方もいらっしゃるかもしれません。

 

生きる指針の中身は人それぞれだと思いますが、生きる指針について考えるときのヒントは、生きる指針を文法チックに考えることです。

 

「生きる指針 = 名詞 x 動詞 x 形容詞」

 

名詞:どんな人でありたいか(※1)

動詞:どんなことをしているときに夢中になれるか(※2)

形容詞:どんな気持ち・瞬間を大切にしながら生きていたいか(※3)

 

(※1)どんな人になりたいかではなく、今この瞬間にどんな人で「ありたい」か

(※2)何を達成したいかではなく、今この瞬間にどんなことを「していたい」のか

(※3)自分の中の「こうでありたい」、「これをしていたい」を体現できているときに感じるあの感覚 

 

たとえば…(あ、興味ない?スキップしてもいいですよ!でも読んでくれたら君も今日からマブダチさ!)

名詞:ダンサーのような人でありたい

動詞:「旅する」と「書く」ことを通じて生きていきたい

形容詞:「あたたかく」「ハッとする」気持ち・瞬間を大切にしていきたい

 

この3つが見えているとき、わたしは「自分が正しい方向に向かっている」気がします。

 

いやー、しかし、自分が納得のいく「生きる指針」を見つけるって難しいですね...

 

わたしは生きる指針を見つけるヒントとして

「生きる指針 = 名詞 x 動詞 x 形容詞」

が役に立つかなあと思いましたが、この式を納得のいく形で埋めるのはなかなか骨折りです。

 

最後に...

人生のモヤモヤを切り抜けるための生きる指針(=北極星)… そんなシロモノは果たしてどこにあるのでしょうか。

誘導質問をしておいてなんですが、答えは知りません… きっと自分にしかわからないからです。

 

ただ、北極星を見つけるときって、何をヒントにしますか?

 

 

 

 

たいむずあっぷ!

 

あ、もう答えたって?ふざけるなって?ごめんなさい…

 

北斗七星をまずは見つける。

 

そして北斗七星の点と点を結んだ先にあるのが北極星

 

だったら、北斗七星をまずは見つければいい。

 

またまた引用となってしまいますが、アメリカのカントリーバンド「Rascal Flatts」の「God Bless the Broken Road」という曲中の歌詞に、すごく励まされた言葉たちがあります(とてもよい曲なので、よかったら聞いてみてください!)。

I set out on a narrow way many years ago
Hoping I would find true love along the broken road
But I got lost a time or two
Wiped my brow and kept pushing through
I couldn't see how every sign pointed straight to you
That every long lost dream lead me to where you are
Others who broke my heart, they were like northern stars
Pointing me on my way into your loving arms


Rascal Flatts Bless the Broken Road 

 

なんか抽象的なことを言ってしまいましたが、北斗七星とは、今までの人生の中で出会った人や経験のことかなって。いいことも悪いこともぜんぶ含めて。今まで出会った人や経験を点として結んでいった先に見えてくるものが「こうでありたい」、「これをしていたい」、「こんな気持ちで生きていきたい」っていう生きる指針に繋がっていくのかなって。

 

わたし自身もそうでした。

 

もともと国際強力に関心があったものの、民間企業に就職して仕事で悶々としているとき... ある日気づいたことがありました。そもそも太陽が燃え尽きたら地球はいつかなくなるし(なくならないかもしれないし、火星に移住するかもしれない。そのわずかな可能性を信じることが希望であり生きる原動力なのかもしれないと後に思うようになりましたが、ここでは割愛します)、そもそも人類の歴史において戦争とか貧困とかの問題は絶えることがなかったし、そもそもいろいろなできごとを問題視しているのは自分であって、問題と思っているものの中には問題じゃないことだってあるかもしれない。たとえばモノの豊かさで日本人は物質的にはいわゆる途上国よりも恵まれているかもしれないけれど、心の豊かさにも恵まれているのかな?世界を問題視して変えようと躍起になって、でも変えることができなくて落ち込んで… そんな独りよがりのジェットコースターみたいな人生を送るのはもったいないんじゃないか?地球はいつかなくなり問題はいつになってもなくならないなら、とにかく好きな人に囲まれながら好きなことをしたいと思いました。ただ、だからと言って「自分と周りさえよければいい」思考に陥りたくないと思っている自分もいました。

そこで考えたことは...

 

一体人生で何をしたいんだろう。

 

「好きなことをすること」と「誰かの役に立つこと」は必ずしも相反するものでないにせよ、この2つのジレンマに挟まれていました。


そしてまずは自分の好きなことを考えて悶々としていたとき、ふとそれは「書くこと」と「旅すること」だと思ったんです。新しい出会いと経験を通じて感じたこと・気づいたことを言語化しているときはなんだかわくわくするし、自分の言葉に目を止めてくれた誰かが励まされたとか感動したとか言ってくれる瞬間がやっぱり好き(ブログを書いていてこんなことを言うと自分でハードルを上げている気もしますが...笑)。そして以前Facebookに「人生の目標は人をinspireすること」って投稿したことを思い出しました。そしてそのとき、ただ好きなことを追いかけるだけじゃなくて、言葉の力を通じて人をinspireする人生を送りたいと思ったんです。自分の言葉を発することはもちろん、人が自分の経験や想いを言語化する手助けをすることで、胸があたたかく、時にアツくなるような人生を送る人が増えたら素敵だなって。

 

そして思ったことは...

 

好きなことを「誰かのために」ではなく「誰かを想いながら」やる。
誰かのために何かをすることは素晴らしいことだけれど、あんまり「誰かのために」が度を過ぎると自分の人生の意義だったり幸福度だったりを「誰か」に依存させてしまって情緒不安定になりそう。だからといって自分の好きなことをひたすらやっているのも、何か物足りない。おこがましいかもしれないけれど、やっぱり人として生まれてきた以上は、「人との繋がり」があってこそ感じるあたたかさもあるし、私にとって「人」の存在は大きい。自己完結する幸せってなかなかない。いろんな感情がごちゃ混ぜになって、最終的に思ったことは、「好きなことをして生きる」と「人のために生きる」は両立できるってこと。「人のために」っていうとなんだかニュアンスがちょい違う気がするので、どちらかというと「人を意識して生きる」っていうのかな。たとえば自分がダンサーだったら、観客のために踊るというより、観客が喜んでくれたらいいなと想いつつ自分が好きだから踊る。傷つかないためのリスクヘッジのように聞こえるかもしれないけれど、万人にウケるダンスなんてないし、周りからどう思われようと自分自身が満たされた状態でいる限り、自分の幸せは相対的じゃなくて絶対的なものになる。

そして思ったことは...

 

ダンサーのように生きたい。


なぜなら、①自分が好きなことをとことん楽しんでいるから、②ファンがいるからこそダンスが100倍楽しくなることを知っているから、そして③自分の好きなことを通じて観客を感化(=観客の心を揺さぶり、何かに対して1歩踏み出すきっかけ・原動力もたらすこと)しているから。観客のためだけに踊っているわけではないけれど、観客を意識して踊るからこそ踊る原動力が湧いてくるし踊ることをより楽しいと思える。もし観客から望み通りの反応をもらえなかったら、ちょっとへこむかもしれないけれど、自分が好きだから踊っているだけだから、踊っていた時間が無駄だったと後悔することもない。

 

といった感じで、わたしはなんとなく生きる指針みたいなものを自分なりに考えました。

 

必ずしも生きる指針がなくてはならないわけではないけれど、なんだか生きる指針があるだけで人は強くなれる気がするし、毎日ちょっとでもわくわくして生きていられる気がする。少なくともわたしは、社会人になって悶々とする中で、生きる指針的なものを見つけてちょっと心が軽くなりました。

 

ということで…

わたしは「旅する」x「書く」ことを通じて生きていきたいと思っています。

 

旅を通じて感じたこと、学んだこと、気づいたことを言語化していきたいなあと...

 そしてその第1歩としてブログを始めました。

 

あとは... カフェを作ろうと思います!

 

文脈がぶっ飛びすぎていると思ったそこのあなた!

間違いないです。笑

 余力が尽きたので続きはCMの後で…

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

差し支えなければアミーゴ認定させてください!笑

 

▽よかったらこちらもどうぞ!

 

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