北極星のみつけかた|yuzubaby

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北極星のみつけかた

映画『天気の子』に惹かれてしまう5つの理由【ネタバレ含】

みなさんは、映画『天気の子』を観ましたか?

映画が伝えたかったことって、なんだと思いますか?

 

何がよかったかをひとことで表すのは100%の晴れ女になるぐらい難しいのですが、映画『天気の子』には、現代人が忘れていた『大切なこと』が散りばめられている気がします。

 

新海誠監督とチームのみなさんの意図をどれだけ汲み取れているかはわかりませんが、一個人として天気の子に惹かれてしまう5つの理由についてお話しします。

これを機に、天気の子ファンが1人でも増えることを願って... 

天気の子 帆高

▲ 写真は日本テレビの番組「ZIP!」での特集から拝借しました。

 

誰かを信じるということ

大抵の大人は子どもの言うことを信じない。それでも一部の大人には耳を傾けるピュアさがある。

映画『天気の子』で描かれる警察は、パトカーの中での帆高の主張を信じない。

映画のワンシーンで小さな男の子が窓の外を見て「ママみて、小さなお魚がいるよ!」と叫んだときに母親は適当な態度であしらう(次のシーンが「適当なこと言ってんじゃねーよ!」っていうツッコミのようなセリフから始まっているのが個人的にツボでした。一瞬男の子が言ったのかと思ってびっくりした。笑)

 

ただ、そんな大人たちがいる一方で、子どものひたむきな想いを感じ取ってくれる大人がいる。その証拠に、「そこまでしてでももう1度逢いたい人がいる」という帆高の気持ちが痛いほどわかる須賀さんは、警察の前で無意識のうちに涙を流す。そしてラストシーンで須賀さんは警察に立ち向かい、帆高をかばう須賀さん。新海誠監督作品に心が洗われる理由は、こんな風に「大抵の人は~でも○○だけは~だ」みたいな描写があるからかもしれません。

 

誰かを無条件に愛するということ

特別な何かをしなくても、自分の存在そのものを必要としてくれる人。そんな誰かを、わたしたちは探してる。

陽菜が神宮外苑花火大会のために、どしゃぶりの雨を晴れにするシーン。

帆高と陽菜がビルの屋上で2人で花火を眺めているときに、陽菜は言います。

私、好きだな。この仕事。晴れ女の仕事。私ね、自分の役割みたいなものが、やっとわかった

※セリフを言い終わったときにニコッと笑う陽菜が可愛すぎてたまらないですよね...

 

陽菜のセリフから汲み取れるように、人はみな役目を探してるし、人の役に立てた瞬間に生きがいのようなものを感じる。

役目があるということは、誰かに何かをしてあげること。

役目があるということは、誰かから必要とされてる証拠。

 

でも、役目はときに人を苦しめる。

役目のせいで、自分が犠牲にならなきゃいけないときがあるから。

陽菜が犠牲にならないと、晴れ女という役目をまっとうできないように。

 

人は自分の心のスキマを埋めるために役目を探そうとする。

だけど結局わたしたちが本当に求めているものは、役目というよりも、自分が何か特別なことをできるから必要としてくれる人よりも、自分の存在そのものを必要としてくれる人だ。そしてきっとそれを人は愛と呼ぶんじゃないかと思います。

 

だから、人間が務めうる役目の中で最も尊くて最も美しいのは、きっと誰かを無条件に愛すること。

 

全世界を敵にしても守りたい人がいるということ

世間と主人公。現実の世界と空上の世界。2つの対比から生まれる壮大なカットバック効果。

新海誠監督の2大最新作である「君の名は。」と「天気の子」には、ある共通点があります。それは、報道ニュース、公共アナウンス、SNSなどを通じて、いわゆる世間と主人公のかかわりを描いているからです。

映画『天気の子』の冒頭にあるセリフでは、

これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語

と帆高が言っているように、帆高と陽菜の2人の間にある空気観は、まるで2人は特別な別世界にいるかのよう。

実際に映画では、まだ人間が知らない「空の上の世界」が存在するし、そこは現実の世界とはかけ離れた異次元の世界。

多分、物語の舞台が最初から最後まで空の上の世界だったら、最初から最後まで帆高と陽菜の2人だけが登場するストーリーだったら、感情移入しづらいというか、映画にいまいち引き込まれない。

物語がどこか中だるみしてしまう。

でも、世界で起きているできごとに対する世間の反応と主人公の反応だったり、馴染みのある東京の風景と飛行機の中でしか見たことのない空の上の風景だったり...

2つの何かを対比させて交互にシーンを繰りだす(=シナリオの世界ではこれをカットバック効果と呼ぶそうです)ことで、飽きることなく、むしろ物語にどんどん惹かれていく。

陽菜が人柱になったことで、どしゃぶりの雨が降り止んで東京に晴れが戻るシーン。Twitterでの世間の反応は、晴れを喜ぶ声ばかり。でも晴れになった本当の理由を知っている帆高の反応は世間とは真逆。

帆高が陽菜に逢うために新宿の線路を走るシーンでは、「見て、線路走ってる!」「ああいうやついるよな~」など野次馬の声。でもそんな世間の声は無視して(というか聞こえていない?)線路をひたすら走る帆高。

世間は敵にも味方にもなるから、一概に世間は正しいとか間違っているという単純な話ではない。

だけど、世間の声を描くことで、世間に背いても自分の想いを貫こうとしている主人公のひたむきさが鮮明に映ると思うんです。

世間と主人公のかかわりを描くことで、現実世界と空の上の世界を対比させることで、こんなにも心を揺さぶられる作品を生み出すことができる新海誠監督とチームのみなさんは、なんというか本当に素晴らしいと思います。

 

自分の心に正直でいるということ

世界のために祈ることは素晴らしいが、世界のために自分が犠牲になる必要はない。世界はどうせ狂ってるし、なるようになる。だから、自分の想いを大切に生きろ。

正義のシンボルであるはずの警察や児童相談所の職員が、まるで悪者かのように描かれています。

少なくとも視聴者側としては、警察よりも帆高に、児童相談所の職員よりも陽菜に感情移入してしまいます。

その理由はきっと、世の中にはびこっている誰かが決めたルールじゃなくて、自分が正しいと信じる道を、帆高は走ろうとしているから。

自分の本心にまっすぐ走っているから。

 

世の中のルールでいえば、いくら整備中であっても線路に立ち入って走ることは許されない。でも帆高は陽菜にもう1度逢うために線路を走る。

日本の法律では、銃を持ち歩くことは許されない。ましてや銃口を警察官に向けるなんてもってのほか。でも帆高は陽菜にもう1度逢うために警察に銃を向けてその場を脱出し、陽菜にもう1度逢うために階段を走って駆けのぼる。

 

世間のルールに背いて自分の意志を貫くことが100%正しいわけではないけれど、間違っているとも限らない。何より、自分よりもずっと権力のある警察に帆高が立ちはだかって震える手で銃を持つ帆高の姿は、美しかった(むしろ世の中のルールに従うことで大切な人を守れないことの方が問題かもしれない。もし帆高があのラストシーンで誰かを撃ってしまっていたら、帆高が陽菜を助けたいという自分の想いのためにルールに背く姿は許されなかっただろうし、誰かの命を奪ったり怪我を負わせたり、そういったことは許されることではない)。

 

何が正しくて何が間違いなのかは、右脳と左脳が慎重に分析して判断する。

でも何を美しいと思うかは、心が勝手に決めてしまう。

どんな超人でも自分と他人の心をコントロールすることはできない。

人は美しいものに触れると、いとも簡単に心を動かされてしまうから。

※ちなみに、「恋する人は必ず走る」と言っていたシナリオの先生の言葉は本当だと実感しました。『天気の子』では、もはや走るだけじゃなくて「恋する人は飛ぶ」という新しい常識を打ち出していますけどね!

 

自然と人間は一心同体だということ

人間と自然はつながっている。どっちが支配してるとか、どっちが偉大とかじゃなくて、互いが影響しあってる。

みなさんは、21世紀の現代は、ちょっと人間中心すぎる世界だと思ったことはありますか?それとも、どんなに人間が自然を支配しようとしても、結局は自然の力には勝てないと思いますか?

 

映画『天気の子』から伝わるメッセージは、人間絶対主義でも自然絶対主義でもないと思うんです。

もちろん東京の気候がおかしくなっていく様子は、地球温暖化が懸念されている現実を思い起こさせますが、新海誠監督が描きたかったのは、人間が自然を汚していく姿ではなく、好き放題にしている人間に対して自然が罰を与えようとしている姿でもない。

 

あくまでも個人的な見解ですが、新海誠監督は人間と自然の間にあるのは上下関係ではなく、互いが互いに影響を与えあう相互関係(なんかさっきから複雑なことを連発していてごめんなさい。ワケわかんねーよと思われた方は読み飛ばしてください。でも留まってくれた方は、先輩と呼ばせてください!)

 

人間は自然を支配しきれないし、自然も人間を支配しようとしているわけではない。

どんなに晴れを願っても雨が降り続ける東京、そして陽菜が願ったら晴れになるとしても、陽菜が犠牲を払わなければならない様子は、人間は自然を支配しきれないことを教えてくれる。

 

一方で、陽菜が願ったら雨が降り止む様子は、一概に自然が人間を支配していじめようとしているわけでもないことを教えてくれる。それに帆高が時空を越えて陽菜に逢いにいくシーンが教えてくれるのは、人の想いはときに自然の摂理を越えてしまうということ(多分これを人は奇跡と呼ぶ!ちょっと名言チックにドヤろうとしてしまいました、ごめんなさい)。

 

世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから

とか、

お前たちが原因でこうなった?自分たちが世界のかたちを変えちまったぁ?んなわけねえだろ、バーカ。自惚れるのも大概にしろよ

という須賀さんの言葉には、自然っていうものは人間の手によってそう簡単に変えられるようなものじゃない、人間の手によって自然がどうこう変わると思っているのは、きっと自然よりも人間が上だとか思ってるからだ、もっと自然に敬意を払え、みたいな想いが含まれている気がします。

 

だから、別に地球温暖化なり異常気象なりは人のせいじゃないから大丈夫だよっていう安易なメッセージを伝えたかったわけじゃなくて、過去にも地球に氷河期が来て恐竜が絶滅したように、地球が今後どうなるのか、そして世界のありさまはどう変わっていくのかは、決して人間の手だけにかかっているわけじゃないってことを伝えたかったんじゃないかと思います。

人間がどうこうしなくても川や時間が流れていくように、人間がどうこうしなくても世界は変わっていくものなのかもしれない。

だからといって、どうせ人間が何をしようと世界の運命が決まってるなら、好き放題にしていいや、自然資源も好き放題使っていいや、っていう考えるのではなくて。

どうなるかはわからないし、コントロールしきれないとしても、自然と二人三脚で歩いていこう、みたいな考え方をしたい。

 

人が地球の姿を変えることはできないし、地球の運命を操作することはできない。じゃあどうする?諦める?世の中には人間の手には負えないようなことがたくさんある。それでも・・・

 

愛にできることはまだあるかい

 

こんなことを教えて考えさせてくれる映画でした。

 

新海誠監督、制作チームのみなさん、Radwimpsのみなさん、

ありがとうございました!!!

 

www.youtube.com

 

▼歌詞はこちらです!

 

愛にできることはまだあるかい by Radwimps

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愛にできることはまだあるかい

 

何も持たずに生まれ落ちた僕
永遠の隙間でのたうち回ってる
諦めたものと賢いものだけが
勝者の時代に何処で息を吸う

 

支配者も神も何処か他人顔
だけど本当は分かってるはず
勇気や希望や絆とかの魔法
使い道もなく大人は目を背ける
それでもあの日の君が今もまだ
僕の全正義のど真ん中にいる

 

世界が背中を向けてもまだなお
立ち向かう君が今もここにいる
愛にできることはまだあるかい
僕にできることはまだあるかい

 

君がくれた勇気だから
君のために使いたいんだ
君と分け合った愛だから
君とじゃなきゃ意味がないんだ
愛にできることはまだあるかい
僕にできることはまだあるかい

 

定めとはつまりサイコロのでた目
はたまた神のいつものきまぐれ
選び選ばれた 脱げられぬ鎧
もしくは遥かな揺らぐことない意志
果たさぬ願いと 叶わぬ再会と
解けぬ誤解と 降り積もる憎悪と

 

許し合う声と 握りしめ合う手を
この星は今日も 抱えて生きてる
愛にできることはまだあるかい
僕にできることはまだあるかい

 

君がくれた勇気だから
君のために使いたいんだ
君と育てた愛だから
君とじゃなきゃ意味がないんだ
愛にできることはまだあるかい
僕にできることはまだあるかい

 

何もない僕たちになぜ夢を見させたか
終わりある人生になぜ希望を持たせたか
なぜこの手をすり抜ける物ばかり与えたか
それでもなおしがみつく僕らは醜いかい
それとも綺麗かい 答えてよ

 

愛の歌も歌われ尽くした
数多の映画で語られ尽くした
そんな荒野に生まれ落ちた僕、君 それでも
愛にできることはまだあるよ
僕にできることはまだあるよ

 

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