映画『天気の子』-
賛否両論あるようですが、わたしは胸を張って絶賛します。
その理由を、述べたいと思いますっ!
映像の美しさ、そして音楽の絶妙なシンクロについては、言わずもがな。
ということで、わたしが天気の子を支持する理由を、『セリフ』と『メッセージ性』の両面から伝えていきたいと思います!
『天気の子』にでてくる、心を揺さぶるセリフたち
その1
東京ってこえー。東京ってすげー。
田舎の実家を飛び出て、船で1人上京する帆高。
物語の冒頭で思わず帆高がこのセリフを放ちます。
初めて目にする未知の世界(=東京)への恐れと憧れが、それぞれたったの7文字で見事に表現されています。多分、わたしたちも異国に行ったら、帆高と同じようにこんなセリフを思わずつぶやいてしまうのではないでしょうか?
多くを語らずとも、帆高の心情にとても共感できてしまいます。
ストーリーを通じて、東京に対する帆高の気持ちの変化が楽しみになるセリフです。
その2
なんで家出したの?
>そっか。
家には帰らないの?
>そっか。
家出して上京した帆高が、ひょんなことから出逢った陽菜の家に初めてお邪魔するシーンに出てくるセリフです。
陽菜は帆高に家出した理由を聞くのですが... 「なんで家出したの?」と聞いても釈然としない帆高に対して、陽菜は帆高を責めるようなことは一切言わず、代わりに「そっか」とひとことだけ返すのです。
続けて陽菜は帆高に「家には帰らないの?」」と聞くのですが、またしても釈然としない帆高に対して、またまた陽菜が返す言葉は「そっか」のひとことだけ。
陽菜は、決して適当な返事をしているわけではないんです。
帆高のことがどうでもいいわけでもないんです。
東京に来たばかりで右も左もわからない、そして理由はわからないけれどどこか事情を抱えているような帆高。
これからどうなるかわからないー
そんな帆高の気持ちとなんとなく同じものを抱えた陽菜は、帆高を詮索なんてせず、そっと見守るのですっ!
「そっか」のたった3文字に、陽菜のやさしさが滲みでています... ううっ...
その3
ただの空模様に、こんなにも心を動かされてしまう。
心を、陽菜さんに動かされてしまう。
帆高と陽菜が始めたお天気ビジネスー
みんなが楽しみにしている夏の花火大会を晴れにしてほしいとの依頼があり、陽菜がみごとに雨を晴れにするのですが...
どしゃぶりの雨が止んで綺麗な花火が打ちあがり、その花火を見ながら帆高と陽菜が2人きりで語らうシーンで出てくるセリフです。
アニメなのに、ドローンで上から空撮したようなリアルな打ち上げ花火ー
そんな息を呑む美しさの映像とともに、この「ただの空模様に、こんなにも心を動かされてしまう。心を、陽菜さんに動かされてしまう」とのセリフが流れたときは、もうため息がでるかと思いました。
帆高が陽菜を想う気持ちは、こんなにも美しいんだ、と。
このシーンで出てくる打ち上げ花火は、まるで帆高の気持ちそのものです。
とても美しくて儚いー
そう、家出少年として上京してきた帆高は、きっといつしか陽菜と別れなくてはいけないときがくる。打ち上げ花火のように、永遠には続かないかもしれない想いだからこそ、上京して今後どうなるかわからない暗闇の中だからこそ、余計に陽菜への想いがきらりと光るのかなあなんて思います。
その4
人間歳とるとさぁ、大事なものの順番を、入れ替えられなくなるんだよな
んんん... これはいろんな解釈の仕方ができそうですが、なんだか深い。
というか心に残る。
ということで、この記事にも残しておきます!
このセリフは、考えるより感じろ系だと思うので、みなさんもぜひ映画を観て感じてみてください!
その5
人柱1人で雨が止むなら、俺は大歓迎だけどな。
須賀がぼそっと呟くこのセリフ。
「セリフは嘘つきであればあるほどいい」という脚本のルール(?)をみごとに守ったかのようなセリフです。
というのも、「家出少年をかくまっているとバレたら娘に会えなくなるかもしれない」というジレンマを抱えつつも、上京して拠りどころのない帆高に感情移入する須賀は、ストーリーを通してなんだかんだ帆高を助ける選択をするのです。
だから、そんな帆高が大切に想っている陽菜(=人柱)が犠牲になればいいだなんて、思ってもいないはず。
多分ここで須賀がこのようなセリフを呟いたのは、今は亡き妻に対するやるせない想いからではないかと思うのです。
というのも、もう1度妻に逢えるなら、全世界を犠牲にしてでも、須賀を選ぶと思う。
ただ、どんなにあがいても、もう妻はいない。
そんなやるせなさから、須賀はつい思ってもいないことを口走ってしまった気がします。
あと、その他の勝手な解釈としては...
・人柱1人で済むほど、世界の問題(=雨が降り続ける現象)は単純じゃない。
・1人を犠牲にすることで大衆がハッピーになればいい?ほんとに?
こんなことを視聴者が考えるきっかけとなるセリフだったんじゃないかなあと。
その6
俺が1番年上じゃねえか...
新海誠監督は、ほんとに感情を言葉に凝縮させる天才ですね!
これは、陽菜がいなくなってしまった後に帆高が警察に連行され、パトカーの中で悔し涙を流しながら帆高が呟くセリフです。
陽菜のことをずっと年上だと思っていたのに、警察官のひとことで、陽菜が実は年下だったと知る帆高。
年上の陽菜に頼ってばかりいた帆高ですが、陽菜が本当は年下だったことを知り、1番年上だったのになんで陽菜を守ってあげることができなかったのかと、自分自身を責める帆高の心情が「俺が1番年上じゃねえか・・・」のひとことに表れています。
『天気の子』にでてくる、空よりも深いメッセージ性
『天気の子』については、いろいろな解釈があると思いますが、キャラクターのセリフから感じられるメッセージ性について語りたいと思います。
もう二度と晴れなくたっていい!
青空よりも、俺は陽菜がいい!
天気なんて、狂ったままでいいんだ!
帆高が陽菜を迎えに(?)鳥居をくぐり、空で陽菜と再会するシーンのセリフ。
これを解説すると、セリフのよさが削ぎ取られてしまう気がするのと、解説なんかしなくても伝わると信じているので、あえて解説はしません。
あ、でも、「このセリフってなんか無責任じゃね?」って思っている人がいたら、1つだけ持論を述べさせてください。
一見無責任にみえるようなこのセリフですが、わたしにとっては、これは無責任な発言のようには聞こえませんでした。
「天気のことなんてどうでもいいと思えるほど、陽菜が好き」
ともいえるかもしれませんが、
「陽菜が犠牲になったところで、天気が回復するわけではない」
とも解釈できる気がします。
言い伝えによれば、人柱が犠牲になることで、確かに一時的に天気は回復してきたかもしれない。でも、今まで一体何人の人柱が犠牲になってきたのでしょうか?
どんなに過去に誰かが天気、もしくは大衆のために犠牲になってきたとしても、依然として今も天気は雨。
ということは、いくら陽菜が犠牲になって天気が元通りになったとしても、それは一時的な気休めにすぎないのではないでしょうか?
それならば、陽菜1人がみんなのために犠牲になる必要はない。
陽菜1人に「世界を救う」なんて大ごとを背負わせるわけにはいかない。
雨が降り続ける現象は、みんなが取り組むべき課題、もしくはみんなが受け入れて共に生きていくべき現象であって、陽菜が犠牲になるとかそういうことでどうにかやり過ごすものではない。
監督が伝えたいメッセージとは少しズレがあるかもしれませんが、わたしにとっては、このセリフに、そんないろんなメッセージが込められているような気がしました。
まるでセリフの万華鏡!
ひなは、ひなのために祈るんだ!
ひなはもう晴れ女なんかじゃない!
よくも悪くも、1人がどうこうしたからといって世界が劇的に変わるわけじゃない。
もちろん、過去の偉人によって世界がちょっといい方向に変わったり、過去の罪人によって世界がちょっと悪い方向に変わったりする。
でも、誰かにとっての「いい」は、誰かにとっての「悪い」かもしれなくて、誰かにとっての「悪い」は、誰かにとっての「いい」かもしれない。
だから、もしかしたら、わたしたち人間がすべきことは、「世界のために○○すべき」といったような大それたことよりも、「隣にいる大切な人を愛する」といったようないたってシンプルで難しくなりつつあることをすることなのかもしれない。
もちろん、世界のために、とか、誰かのために何かをするっていうのは、耳障りがよく聞こえる。
でも、1人が「わたし/僕が世界を救うんだ!」と意気込んで一生を捧げたとしても、世界はよくならないかもしれないし、よくなったように見えて誰かにとっては悪くなったかもしれないし、何より、世界を救うために身も心も(時には命さえ)捧げたことで、その人自身は本当に幸せだったといえるのか?その人が愛する人、その人を愛する人は、本当に幸せだったといえるのか?
「天気の子」に賛否両論があるとしたら、きっとそれは、帆高の行動が「陽菜が好きだから世界なんてどうでもいい(=1人のために世界を犠牲にしてもいい)」なんて安直なメッセージを伝えているように見えるからかもしれません。
でも、わたしにとって「天気の子」は、それ以上のことを伝えようとしている映画だと思います。
昔は入り江だったんだ。
元に戻っただけかもしれない、なんて思ったりするね。
&
あんまり気にするなよ。
世界はもともと狂ってんだ。
&
ちょーポジティブ!
>お花見楽しみ~
このセリフがいいと思った理由は...
・人間がもがこうとあがこうと、世界は自然と変わっていく
・世界が変わっていく中で、人間も適応してきた
・世界を変えることよりも、変わりゆく世界の中でどう生きるか
といったメッセージ(?)を感じたからです。
わたし自身、「世界のために行動したい。あれ、でも、太陽が燃え尽きたら、地球っていつかなくなるんじゃ...?」というなんとも小難しいことを考えていた時期がありました(大学時代ですね、はい笑)。
今の持論としては...
何か突然変異が起きて、太陽の代わりになる恒星が現れるかもしれない。だとしたら、地球は将来なくなるかもしれないし、なくならないかもしれない。もしなくなったとしても、そのころまでには人類は火星に移住してるかもしれない。
そして、その「~かもしれない」という可能性のことを、人は希望と呼ぶのかもしれない。
だから、地球のために、後世のために、何か「いいこと」をしようとするのは自然なことかもしれない。
だけど、どんなに「いいこと」をしようとしても、必ずしもそれが万人にとっていいことかはわからないし、どんなにあがいても、いつか氷河期が来て恐竜が絶滅したように、人間の手には追いきれない現象が起きて、本当に人は滅亡してしまうのかもしれない。地球はなくなってしまうのかもしれない。
それでも人を愛そうとする人間は、それでももがく人間は、美しいのか?醜いのか?
そんなことを全部鑑みた上で、結局1番大切なことって、隣にいる人を精一杯愛することなのかもしれない、不安な中でも手を取り合って「大丈夫だ」って笑い合って生きていくことなのかもしれないー
そんなことを、映画「天気の子」は教えてくれる気がします。
天気の子の主題歌でもあるRADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」の歌詞で、こんな歌詞があります。
何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
終わりある人生に なぜ希望を持たせたか
なぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか
それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい
それとも きれいかい 答えてよ
この歌詞は、本当に好きです。
映画に出てくる名セリフたちが伝えようとしていることを集約している気がするから...
ということで、
ぼくたちは、きっと大丈夫だ!
(↑ 映画を観た人ならわかるであろう、とっても好きなセリフ)
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