北極星のみつけかた|yuzubaby

自称宇宙人のゆとり世代が書く雑記ブログです。

北極星のみつけかた

backnumberの瞬きを聴きながら、幸せについて考える

What You Truly Need for Happiness - More Taste or More Taste Buds?

f:id:yuzubaby:20181108231646j:plain

幸せを感じられないとき、みなさんならどうしますか?

 

今週の日曜日から風邪をひいてしまったのですが、風邪をひいたことで新たな発見がありました。

 

というのも...

 

風邪をひいて、母が作ってくれた料理の味をまったく感じられなくなりました。

 

目の前には湯気が立つおいしそうなたまご粥があるのに、口にしても感じられるのは温度と舌触りだけ。

 

卵の味も白米の味もしない。

 

「どんなにおいしいものが目の前にあっても、味覚が麻痺していたらおいしさを感じられないんだなあ。」

 

そしてふと気づきました。

 

「どんなに「幸せ」が目の前に転がっていても、感覚が麻痺していたら幸せを感じられないのと同じだな。」

 

I. 幸せの定義を定めることは、幸せの範囲を狭めること

 

「幸せとは何か」

 

とは人間界でよく頻出する質問ですよね(動物界でも頻出するのでしょうかメモメモ)。

 

実際、過去の自分も携帯のメモに「幸せとは何か」に対するアマチュアなりの答えを書き溜めてきました。

 

1年前の自分に言わせてみれば、「幸せには2種類ある。1つ目は愛する人と過ごすことの幸せ、2つ目は夢を追いかけることの幸せ。」

 

1週間前の自分に言わせてみれば、「幸せとは、信じたいものを心から信じられている状態のこと。」

 

風邪で味覚が麻痺した現在の自分に言わせてみれば、おいしいものがおいしいと感じられることそのものが幸せなように、「幸せって感じられるのなら、なんでも幸せ!」

 

そして過去のメモを見ているうちに、こう思いました。

 

「もしかしたら幸せの定義を定めようとすることは、不幸の始まりなのかもしれない。」

 

こう言い切ってしまうとちょっと衝撃的かもしれませんが、もうちょっとわかりやすく言い換えると

 

「もしかしたら幸せの定義を定めることは、幸せの範囲を狭めること。」

 

たとえば「幸せとはこういうものじゃ!」と定義を定めたとしたら

 

自分の日常を「幸せの定義」に照らし合わせて「これは幸せ」「これは幸せじゃない」っていう分別をしてしまいますよね(え、しない?)。

 

だから、無理して幸せの定義を追い求める必要はないし、見つけたところで、曖昧な幸せの定義に自分のできごとを照らし合わせてばかりいたら、曖昧な幸せしか感じられない。

 

定義なんてなくても、自分が幸せだと感じられるものがあれば、それが自分にとって大切にしたい幸せなんだろうなあ

 

「そんなクサいセリフいらねーよ!」

 

とツッコまれたみなさんですよね、すみません

 

II. 必要なのはおいしいもの?おいしさを感じるための味覚?

 

そもそも「幸せとは何か」みたいな定義系の質問について考えるときって、大体幸せじゃないときな気がします(違ったらごめんなさい)。

 

「幸せとは何か」に対する答えを探すことで、幸せに1歩近づける気がするというか、幸せになるためのヒントを探しているというか

 

幸せを感じられていないときって、自分の周りに些細な幸せが転がっていたとしても気づかないものだし、いくら「それでも幸せなできごとはきっとあるはずだから、目を閉じて1日を振り返ってごらん」と言われても、そもそも本当に幸せがお留守状態なのかもしれない。

 

本当に辛いときに「それでも幸せなことの1つや2つはあるはずだ」と言われても思いつかないかもしれないけれど、それは「幸せなことがないから思いつかない」のではなく、「幸せなことはあるけれど思いつけない、幸せを味わえない」のかもしれない。

 

どんなにおいしいものを口にしても、風邪で味覚が麻痺していたら、おいしさを味わうことはできない。

 

他においしいものはないか、もっとおいしいものはないか、と手当たり次第食べ物を買い漁ったとしても、味覚が麻痺している以上は、どれだけおいしいものを手に入れたところで、おいしさを感じることはできない。

 

幸せを感じられないときに考えてみてほしいことは(なんだか上から目線でごめんなさい)、

 

幸せを探し求めることに注力する前に、幸せを感じられていない麻痺状態の自分に着目すること。

 

運命的な出会いだったり、天職との出会いだったり、幸せと出会うことで幸せを感じられるようになるかもしれないし、そうしたらもう結果オーライだけれど、

 

もしなかなか幸せが見つからないと感じるのなら、幸せを感じられていない麻痺状態の自分に着目した上で、「なぜ麻痺状態なのか」を紐解いていくことで、何かしらヒントが見つかるかもしれない。

 

味覚が戻ったらおいしいさを感じられるようになるのと同じように、感覚を取り戻すことで幸せを感じられるようになるのかもしれない... と思う今日この頃です。

 

「こんな抽象的なアドバイスをもらったところで何の役にも立たないわよ、バカヤロー!」と思われた方もいるかと思いますが、そもそもなぜ感覚が麻痺しているのか、については、みなさんの過去なり最近なりに起きたことが関係しているかもしれないので、みなさん自身で考えてもらった方がきっといいだろうと考えています(決して突き放しているわけではないですよ!)。

 

あと、「闇雲に幸せを探し求めようとして、(見つかればいいものの)見つからなくて、落ち込んで...」というサイクルから抜け出すためにも、幸せになるためには幸せを探そうとするよりも、まずは幸せを感じられる状態に感覚を戻すことに集中した方が、なんだかラクになれる気がします。

 

ただ、本当に幸せなものに恵まれていないのだとしたら、きっと探し続けることも大切だと思うので、探しつつ、自分の感覚を取り戻しつつ/研ぎ澄ませつつ... と両輪を回すことが大切かもしれませんね!

 

III. まずさを感じつつ、幸せを味わえる舌の面積を増やす

 

さてさて...

 

今日はこの辺で終わりにしようと思ったのですが、記事のテーマに合わせて舌の写真を探していたら(あ、舌の写真といってもグロテスクなものではなくイラスト調のかわいいものを探していたのでご安心を!笑)、もう1つ思いついたことがあるので共有させてください。

 

というのもですね...

 

舌のイラストを見ていたら、舌で感じられる味は「甘味・塩味・酸味・苦味・旨味」の全部で5種類。

 

そこで思いついたことは...

 

「幸せ味を感じられる面積を増やせたらいいよね」

 

ということ。

 

実際に舌がどのように機能するかを科学的に解説しだすと、「幸せ味を感じられる面積を増やせたらいい」なんて意味不明な比喩への批判が殺到しそうですが...

 

まあとにかく、幸せ味を感じられる面積を増やせたらいいですよね!

 

さらに思ったことは、苦味を感じられるからこそ、甘味を口にしたときに「甘い」と感動することができる。苦味自体に幸せは宿っていないかもしれないけれど、苦味も甘味(=幸せ)を引き立たせてくれるって考えたら、苦味も結局は幸せをより一層噛みしめるために必要なのかもなあと...。

 

苦味を感じなくても甘味を感じることはできるかもしれないけれど、どうせ避けられない苦味(=人生における悩みや困難など)があるならば、苦味を排除しようとするのではなく、その味を受け入れて味わっておくことで、甘いものを口にしたときにより一層甘く感じることができるようになるのかもしれないですね。

 

「暗闇があるからこそ星は輝く」なんていうありふれた?クサいセリフを繰り返すようでめんぼくないのですが、個人的にはこういうクサいセリフもたまには大切だと思っています!笑

 

ということで、幸せを感じるためのマジック3をまとめました!(雑)

 

・幸せそのものより、幸せを感じるための味覚が麻痺している原因を探る

・幸せそのものが欠如していると感じるなら、幸せを探しつつ味覚を研ぎ澄ます

・苦味を感じられるからこそ、甘味(=幸せ)をより一層噛みしめられると考える

 

とっても抽象的ですが、ここまで読んでくださったみなさんはきっと「そんな抽象的な話も嫌いじゃないわよ!」派の方々だと信じて

 

そしてここまで読み飛ばした派の方々は、きっともう既に幸せピーポーだから読む必要なんてなかったと信じて

 

それでは風邪も病み上がりのことですし、そろそろ寝ます!(いつも締めくくりが寝ます宣言で終わっていることにお気づきのそこのあなた、さすが鋭い!)

 

最後に... backnumberの「瞬き」です!

この曲を聴けること自体、幸せですね...

www.youtube.com

 

それではみなさん、よい夢を~!
くれぐれも体調にはお気をつけてください!