北極星のみつけかた|yuzubaby

自称宇宙人のゆとり世代が書く雑記ブログです。

北極星のみつけかた

本心に従って生きるためのエサとギムの取扱い説明書(旧タイトル:どうすれば仕事でも恋愛でも心から満足していられるの?)

いきなりですが、人生・仕事・恋愛において、自分が本当に望んでいるものが何かわからなくなったことはありますか?

 

自分の心なのに、本心がわからないって、なんかおかしな話ですよね。

 

でも、本心がわからなくなってしまうことがある、そんな迷える森の美女が人間というものなのですね、きっと

 

ということで、今日はエサとギムと本心の話をしたいと思います。

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「え、なんやねん。エサって餌?ギムって義務?もうようわからへんからYouTubeに戻るわ!」

 

と思われたみなさん(今日はブログにも多様性を持たせるために関西弁のツッコミを登場させてみました。本家の方々、エセ関西弁ですみません

 

「エサとギムと本心」だけじゃ説明不足だと思うので補足すると、

 

エサ=外的要因(ご褒美がもらえるから行動すること)

ギム=外的要因(義務に従わなければいけないから行動すること)

本心=内的要因(ご褒美・義務がなくても自らの意思で行動すること)

 

のことです。

 

「インテレっぽい用語を持ち出してきてなんやねんお前!」と思われたみなさん。たこ焼きでも一緒につまめばきっと分かり合える

 

といつも通り導入が長くなりましたが、まとめると、周りの誘惑やらなんやらで自分の本心がわからなくなって惑わされるのではなく、自分の本心に従って生きていきたいなっていうお話です。

 

でも、今のご時世、仕事においても恋愛においても、なんだか自分の本心に従って生きるのって難しい?むしろ自分の本心がなんなのかわからなくなる?なぜ?なぜ?おじいさん、オシエテー!(某有名CMのハイジ風)

 

ということで、この謎を解明してみました(これから書くことは、独断と偏見と参考文献から成り立っています。笑)

 

I. エサがなくても自主練に来る子にエサをあげたらどうなる?

2017年頃に書店で大ヒットしていた「図解モチベーション大百科」という本。この本は、人のモチベーションを紐解くために行なったいろいろな心理実験の結果をポップにまとめたものなのですが、その中にこんな実験がありました。

実験のタイトルは「内発的動機づけ」。

この実験(by 心理学者リチャード・E・ニスベット!誰やねんと思われたかもしれないですが、きっと偉い人です...!)で何をやったかというと

 

<<以下、「図解モチベーション大百科」からの抜粋です。>>

 

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https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E3%83%A2%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%99%BE%E7%A7%91-%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%B2%B4%E5%B0%86/dp/4801400426/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1539013177&sr=8-1&keywords=%E3%83%A2%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%99%BE%E7%A7%91

 

【実験 Day1】

幼稚園児たちにマーカーペンを使って、遊んでもらった。

Aチームの子どもには

先に「上手に絵を描けたら、ごほうびをあげる」と伝えておき、絵を描いたあとにごほうびをあげた。

Bチームの子どもには

先にごほうびのことには触れず、絵を描いたあとごほうびをあげた。

Cチームの子どもには

ごほうびをあげなかった。

【結果 Day1】

Aチームは、他のチームより長い間、絵を描いて遊んだ。

 

【実験 Day2】

数週間後、

同じ子たちにまたマーカーペンで遊んでもらいました。

今度はごほうびがありません。

【結果 Day2】

BチームとCチームは、前回同様、絵を描いて遊んだ。

Aチームは、絵を描くことにまるで興味をしめさなくなった。

*予定外にごほうびをあげた分については影響がなかった。

 

つまり自主的な行動に対してごほうびを与えると、内発的動機づけが損なわれる。

 

「ただ、やりたいからやる」という欲求に従って行動するのは、人生を豊かなものにするためにとても大切なことです。

一度でも(物理的)報酬を受け取ってしまうと、本人が自覚しなくても、目的が「ただ、やりたいから」から「ごほうびをもらえるからやる」に変化します。

もともとは期待していなかったはずのごほうびがないだけで、急にモチベーションが下がってしまう。

一度でも報酬を受け取ってしまうと、本人が自覚しなくても、目的が「ただ、やりたいからやる」から「ごほうびをもらえるからやる」に変化する。

もともとは期待していなかったはずのごほうびがないだけで、急にモチベーションが下がってしまう。

「ある行動」が「楽しくない」場合は、報酬を用意することで、その行動を促進することができるかもしれないが、「ある行動」にもともと「楽しい」という報酬がくっついている場合、第三者はただ見守るべき。

好きでやっていることは、テコ入れせずとも、どんどん伸びていく。

 

<<以上、「図解モチベーション大百科」からの抜粋でした。>>

 

ということで、なんだか奥が深そうですよね。

 

「なんか深イイ感出てるけど、オレ/わたし/ぼく/オイラ(呼称にもバリエーションをもたせる時代!)には関係ないや!」と思ったそこのあなた!

 

関係あるかないかはわかりませんが、個人的には仕事においても恋愛/結婚においても通ずる部分があるんじゃないかなーと思うのです。

 

II. エサに惑わされず、本心を貫きたい

 

エサで人を釣ることのワナについて、ちょっと書いてます。

 

まず、職場において、エサで社員を釣ることはワナなのか?

 

大企業では用意されている職種がたくさんあり、働いている人もたくさんいる。そんな中、1人1人が必ずしも自分の望む職種につけるとは限らない。そこで福利厚生などの外発的要因(インセンティブ)が重要になってくるのだと思いますし、福利厚生を与え続ける限りは、ある程度の数の社員は転職せずに働き続けてくれるでしょう。でも、企業の業績が悪化してそんな福利厚生を続けられなくなったら、社員はあっさりと辞めていってしまうかもしれない。となると、やっぱり内発的要因(自分の意思)に敵うものはなくって。企業として、社員1人1人の「なぜここで働くのか」という問いに対して社員自らが解を見出せるように手伝ってあげることで、仕事にコミットしてくれる社員を増やせるのだと思います。

 

実は今会社のCSR活動の一貫で半年間プロボノ(=本業のスキルを通じて社会貢献に従事する人)をやっていて、わたしのチームは「より多くの社員にボランティアへ参加してもらい、社会を変えるチェンジメーカーになってもらうこと」を目指して活動しているのですが、「いかに忙しい社員/社会貢献に興味のない社員にボランティアへ参加してもらうか」が課題です。その中で「アメで釣る方法」が用いられたりするのですが(軽食付きボランティアなど)、やっぱりアメ目当てで来た人のほとんどはボランティアに対する特別な思いがあるわけでもなく、ボランティアが終わった後も社会貢献という抽象的なものについて特に意識を変えるわけでもなく、普通に帰って行ってしまいます。そこでいかに興味を持ってもらえるか工夫するのがわたしの仕事でもあると分かりつつ、アメで釣る方法には限界がある気がします。

 

アメで釣る方法には罠もあります。というのも、もともとボランティアに興味がない人に対してアメを参加のインセンティブとして売り出すのは効果的だとしても、すでにボランティアに興味があってアメの有無に関わらず参加しようとしていた人に対しては、アメを用意することは命取り。先ほどの研究結果が本当だとしたら、すでに自分の意思でやりたいと思っていることに対してアメを用意してしまうと、その人の「純粋にやりたい」が「アメのためにやりたい」に変わってしまうから。

 

今までは、ボランティアへの参加障壁を下げて参加したいと思ってもらうためには「不純な動機(=外発的動機)」をうまく活用して人々の心をくすぐることも必要だと考えてきました。ただ、最近気付いたことは、外発的動機をエサにして参加者を集めるだけでなく、ボランティアを通じて参加者に内発的動機を芽生えさせることの重要性です。最初の1・2回ならまだしも、何回も参加して、その度に報酬をもらっていた場合ある日いきなり報酬がなくなったら、参加するモチベーションが下がってしまうかもしれない(それならばいっそ報酬を与え続けるっていう手もあるのかしら)。となるとやっぱり、人が行動するときに内発的動機があれば最強ですよね。だからこそ参加者にリピーターへと転身してもらいたいのであれば、不純な動機を不純な動機のまま終わらせてはいけなくて、参加した後は「やりがい」などの内発的なモチベーションが生まれる工夫を考える必要がある。企業として本当に社員の心を釣りたければ、やっぱり「心からやりたい」を育てることが大切なんでしょうね!(謎に上から目線でごめんなさい

 

次に

 

恋愛において、エサで好きな人を釣ることはワナなのか?

 

そもそも釣り人自身ではなくエサで釣ろうとしている時点で「本当に好きなのか」疑わしいところはありますが

 

とにもかくにもですね!

 

「好きな人を釣ること」だけが目的だった場合、エサで釣ることは意外と簡単かもしれません。

 

でも、「釣った後もハッピーでいてもらうこと」も視野に入れると、結構難しいかもしれません。

 

なんか当たり前のようですが

 

「釣った魚にエサをやらないなんて。」

 

よく巷ではこんなフレーズを聞きますが、エサと本心について書いているうちに、ふと思ったんです。

 

「そもそもエサで釣ろうとするのも釣られるのも間違いなのでは?」

 

(なんだか今のひとことで多方面からブーイングが飛んできそうなのでヘルメットを被って洞窟に一旦隠れようと思います笑)

 

間違いというより、エサで釣って釣られることは、短期的には釣り人も魚もハッピーになれるかもしれません。

 

でも、長期的に見ると、意外とこの「エサ」がいろんな悩みの原因なんじゃないかって。

 

じゃあどうすればいいかというと、

 

エサで釣るのではなく、釣り人自身の魅力で釣る。そしてエサに釣られるのではなく、釣り人自身に釣られる。

 

「え、セリフがくさい?」

 

ごめんなさい(しくしく

 

まあでもせっかくここまで読んでくださったので、気持ちを切り替えてこのセリフの意味を書いてみます。

 

恋愛/結婚に当てはめるのが1番わかりやすいので、恋愛/結婚を例にします。

(結婚したことがないので以下については妄想で話していますが

 

男性(太郎さん)が好きな女性をエサで釣ろうとした場合、たとえばお金で釣ったとします(何をエサとするのか・エサとすれば相手のウケがいいのかは人によって異なると思いますが)。

 

女性(花子さん)にとっては、お金持ちの男性と一緒にいることで、いつもおいしいものを食べられて、いろんなところに旅行して5つ星ホテルに泊まれて、お金でブランド物を買ってもらえて

 

「お金で買える愛もあれば、お金で買えない愛もある。」

 

こんな深い言葉を東北旅行中に訪れた気仙沼のコテージに泊まったときに素敵なオーナーさんから耳にしたことがあります。

 

「お金」というエサですべての女性を釣れるとは限らないけれど、「お金」というエサで花子さんを釣れた(=結婚した)とします。

 

でも、もし結婚後にエサやりをやめたら?もしくはエサがなくなってしまったら?

 

「お金」というエサを1番の理由に太郎さんと結婚した場合、花子さんの愛は冷めてしまうでしょう。そして離婚に陥るかもしれません。

(そもそも女性が愛していたのは「エサ」であって、男性ではなかった

 

恋愛において本当にお互いが心から満足できるかどうかは、やっぱり「心から好き」と思えているかどうかにあるのではないでしょうか。

 

恋愛/結婚においても人生においても「エサ(=自分の本心ではない外発的なモチベーション/理由)」に翻弄されないためにも、

 

「エサで釣るのではなく、釣り人自身の魅力で釣る。そしてエサに釣られるのではなく、釣り人自身に釣られる」

 

ことを大切にしていきたいです。

 

III. 義務に惑わされず、本心を貫きたい

 

さてさて

 

エサで釣った/釣られた意識があるのであれば、エサがなくなった途端に愛が冷めてしまう可能性が高いことは割と単純明快なのですが、ここからが難題です。

 

厄介なのは、釣り人自身が好きで一緒にいたのに、どこかのタイミングで釣り人と一緒にいる理由が「エサ」にすり替わってしまったパターンです。

 

たとえば、両想いの男女がいたとします。そして「お互いが好きだから」という理由でカップルになって、結婚したとします。

 

結婚した動機はお金などの外的動機ではなく、「相手が好き」という内から湧き出る内的動機。

 

でも、結婚生活の中で何かうまく行かないことがあった場合

 

だんだんすれ違いで、相手と一緒にいる理由がわからなくなってくるかもしれない。

 

そんなとき、もし結婚していなかったら、これからも相手と一緒にいるかどうかを決めるのは自由意志。

 

もし「相手が好きという感情が薄れてしまっている」という感覚自体が錯覚で、本当は相手のことを今でも大切に想っているのにすれ違いやらなんやらが理由で「本当にあの人のこと好きなのかな?なんで一緒にいるんだろう?」って錯覚に陥ってしまっているとします。そのとき、結婚していなかったら相手と一緒にいる行為に「義務」は存在しないため、自分は義務ではなく自由意志に従って行動してるんだ、と考えることができます。

 

どういうことかというと、結婚という義務がない中でも相手と一緒にいる決意をしたのなら、それは外的動機ではなく内的動機から相手と一緒にいることを決めたということ。でも、結婚しているからには、前提として相手と一緒にいる(かつ相手に忠実である)ことが義務づけられているため、相手と一緒にいるかどうかを自由に決められる立場ではない(もちろん離婚することはできますが、結婚という契約を結んだ以上は離婚するまで相手に忠実でいることが法律的に義務づけられますよね)。

 

つまり、「相手が好き」という感情が薄れてしまったとき、結婚相手と一緒にいることは「自分の意志」ではなく「義務」によって行動していることになりかねない。

 

「相手が好き」という感情が薄れたとき、結婚という義務さえなければすぐに別れられるのにねっていう単純な結論を述べたいのではなく、結婚という義務に縛られているからこそ、相手と一緒にいる理由が「相手への想い」からくるのか「義務感」からくるのか混乱しやすくなっちゃうのかなあって。たとえば、「相手が好きだから一緒にいる」という内発的動機が、結婚してすれ違いなどが起きた結果、「(離婚しないという選択が吉か否かは別として)親という義務感から子どものためにも離婚せずに相手と一緒にいる」とか「(専業主婦の場合)経済的に独立できないから相手と一緒にいる」とか「今さら離婚したら世間の目が怖いから一緒にいる」なんていう外発的動機へといつの間にかすり替わってしまうかもしれない。本当は相手への気持ちがまだ健在かもしれないのに、結婚という夫婦関係を義務づけられることで、夫婦の間でうまくいかないことが会ったときに内発的動機が外発的動機にすり替わりやすくなってしまうのかもしれない。

 

ということで、このように「What if?」精神で物事を考えていくと複雑になりがちなのですが、恋愛/結婚においても人生においてもエサとギム(=自分の本心ではない外発的なモチベーション/理由)に翻弄されないためにも、

 

「エサ・ギムで釣るのではなく、釣り人自身の魅力で釣る。そしてエサ・ギムに釣られるのではなく、釣り人自身に釣られる」

 

ことを大切にしていきたいです。

 

これを結婚に当てはめると、

1)結婚するとき、釣り人がくれるエサではなく「釣り人自身」が好きなことを確信する

2)結婚後に、内発的な「好き」が外発的な「エサ(=お金・モノなど)」にすり変わらないよう、お互い「相手がくれるエサ」に頼りすぎないようにする

3)結婚生活を続けるにあたって、内発的な「好き」が続くよう、魅力あるエサではなく魅力ある釣り人であり続ける努力をする

こんな感じでしょうか?

 

そしてこれをもっとズームアウトして汎用的なものに置き換えると、

1)物事を行なうときは、報酬や義務などの外的要因のためにやるのではなく、「自分自身」がやりたいからやる

2)物事を行なう途中で内発的な「好き」が外発的な「エサ(=お金・モノなど)」にすり変わらないよう、「誰かがくれるエサ」になるべく頼りすぎないようにする

3)物事を続けるにあたって、内発的な「好き」がモチベーションであり続けるよう、定期的に「これ楽しんでる?」と自問する

 

こんな感じでしょうか。

 

外発的要因に打ち勝って本心を保ち続けるためにどうすればいいか、についてはこれからもっと模索していこうと思うので、何かいいアイディアが思いついたらLINEでも電話でもしてください!

 

「そなたのLINEなぞ知らぬ」

 

と思われた方は、ぜひコメント欄にご入力を

 

ここまで読んでくださったみなさん、ありがとうございました!おやすみなさい!