Chasing Our Dreams is Actually & Absolutely What We Need for Our Survival
なぜ夢を追いかけるのか。
今日、なんとなく理由がわかりました。
それは、生きるため。
わたしが人生でやりたいなあと思っていることの1つに、生まれ育った境遇に関わらず、子どもにダンサーになる機会をもたらすこと。
*ここでいうダンサーとは、自分が好きなことをしながら生きる人、かつ好きなことを通じて誰かを励まし感化できる人。
子どもに「こうなってほしい」と望むのはただのエゴなのですが、自分が好きなことをしながら人生を謳歌できる子ども→大人が増えたら素敵だなあと思ってしまうのです。
子どもが好きなことをして自身の生きたい人生を生きられるようになるための有力手段として、教育っていいなあと思うわけです。
自分の生まれ育った境遇をよく知らない人に「教育やりたい」と話すと、「なんで教育なの?」って深掘りされるのですが、そんなときにうまく答えられていませんでした。
自分自身、母子家庭において祖父母に学費を払ってもらいながら教育を大学まで受け続けることができた経験があるので、恩送りというか、なんとなく自分と境遇が似た子どもの役に立てたらいいなあなんて想いはあります。ただ、自分が子どもを支援したところでその子どもがどのように成長するかは未知数だしX△●□…
と弱音を並べるのはやめるとして!
教育とか、ソーシャルビジネスとか、考えているだけでわくわくしてくるんです。
そしておいしい卵かけご飯を食べているときぐらい夢中になれるんです。
そして夢中になっているときは、今まで出会った悲しいこととか、日常でふと感じる孤独とか寂しさとか、そういった類いのものを全部忘れることができるんです。
そして気づいたんです。
渋谷のスクランブル交差点でぼんやりと歩く中で、ふと気づいたんです。
「そっか。わたしが夢を追いかける理由って、生きるためなんだな。今までの悲しい経験が凝り固まってできた人生への漠然とした虚無感から逃げるためなんだな。」
なんだかこれだけ聞くと夢を追いかける理由があまりにも消極的だと捉えられてしまうかもしれませんが、
なぜ人は夢を追いかけるのかー
この本質を突き詰めようとしたとき、夢を追いかけることで、ストレス社会と呼ばれている現代社会のブラックホール(=あらゆる孤独や寂しさ、切なさ)から逃れようとしているんじゃないかなあと思います。
よく「生きていくため(=一定の収入を得て食べていくため)には夢を諦めて現実を見ろ」ってフレーズを聞きますよね。
夢を追いかけることは、生きていく上での障害とさえ見なされがち。
でも、そもそも、自分の心に聞いてみてほしいんです。
「生きていく」ってなんだろう?
「生きていく」ってどういう状態だろう?
生きていく。
この言葉には、2つの意味があると思うんです。
1つ目の「生きていく」は、身体が求めている栄養素を摂取し続けることで、心臓が鼓動し続けること。
2つ目の「生きていく」は、心が求めている栄養素を摂取し続けることで、魂が躍動し続けること。
夢の種類によっては、夢を追いかけることで1つ目の「生きていく」を邪魔することもあるかもしれないけれど、夢を追いかけることをやめた瞬間に2つ目の「生きていく」が死んでしまう。
「生きていくため(=一定の収入を得て食べていくため)には夢を諦めて現実を見ろ」
この言葉は合理的に見えるかもしれませんが、この言葉はとっても危険だと思います。
というのも、かの有名なマズローの欲求5段階説はご存知ですか?
マズローの欲求5段階説とは、「人間の欲求は以下のようにピラミッド型になっていて、1つの段の欲求を満たしたら1段上の欲求を満たしたいと願うようになる」と謳っている仮説のことで、人間が抱く欲求を以下の5段階に分類して表しています(あっ、ちなみにこの記事のカバー写真はマズローさんご本人の自画像です)。↓
<マズローの欲求5段階>
自己実現の欲求(=自分の能力・可能性を最大限に発揮して何かを成し遂げたい・価値ある人間になりたい)
↑
承認欲求(=他者から評価されたい)
↑
所属と愛の欲求(=集団に属したい・誰かと関わりたい)
↑
安全の欲求(=身の安全を保ちたい)
↑
生理的欲求(=生命を維持したい)
このマズローの欲求5段階説を持ち出して考えてみると…
たとえば、生きていくため(=一定の収入を得て食べていくため)にダンサーになるという夢を諦めて大企業のサラリーマンになったところで、なんと人間のもつ欲求のたった最下層(生理的欲求)しか満たせないから。
大企業に属して毎月一定の収入を得ることで安全の欲求を満たせるかもしれないし、上司・同僚・後輩に囲まれる中で、あわよくば集団と愛の欲求を満たせるかもしれない。
さらにあわよくば、一定のパフォーマンスを出して上司から認められることで、承認欲求までも満たせるかもしれない。
もしそれで十分に満足できるのであれば、それはそれでいいと思う。
ただ、どうしてもダンサーになりたかったのに生理的欲求(=食料を買う収入を得て生命を維持したい)だけのためにサラリーマン生活を送ったとしたら…
心が追いつかないまま仕事をすることで、精神が不安定になり、安全の欲求が満たされるどころかむしろ不安が大きくなる。
自分にとってはつまらない仕事を一緒にやる仲間と過ごせば「一緒にお酒を飲みながら嫌なことをひととき忘れることで、互いの間に帰属意識が芽生えるかもしれない一方で、ダンス仲間と一緒に無我夢中になって踊っていたときと比べると、やっぱり大企業は本当に属したい場所ではないと気づく。
承認欲求にしたって、自分にとってどうでもいいような仕事をそつなくこなしたところでどれだけ評価されるかは未知数だし、何よりどうせ評価されるなら自分が本当に好きで思い入れをもって成し遂げた仕事を評価してほしい。
…
…
…
そう、気づいてしまいました。
生きていくために夢を諦めたところで、人間の欲求ピラミッドの最下層しか満たせないやん!
もちろん、世の中にはお金がなかったり病気だったりで「生理的欲求」を満たせない人がたくさんいて、そんな中で「生理的欲求」を満たすだけでは満足できないなんて、欲張りかもしれません。でも、だからといって「呼吸しているだけで幸せだと思え、ありがたいと思え」と考えるのも、極端な気がします。
もちろん住む国・地域・境遇によって状況は異なりますが、現代の日本において、生きていくための手段はもはや大企業でサラリーマンとして働くことだけではない。パートタイムで働くだけでも生きていく(=生命を維持する)ための最低限のお金は確保できる。
*↑なんだか無神経な文だと感じた方、申し訳ありません。ただ、わたし自身お金の苦労は多かれ少なかれ経験してきたつもりなので、あたたかくても冷たくてもいいのでどうか見守ってください…!
だとしたら、「生きていくために夢を諦める」っていうのはもはや古いのでは?
むしろ、このストレスフルな社会において、本当の意味で生きていくために夢を追いかける方が理にかなっているのでは?
「ねえ、そこのところどうなの?先生、オシエテエエエ~!」
(↑いきなりキャラ変更してすみません。一応某有名家庭教師サービスト●イのハイジをイメージしました…笑)
ということで、これからも夢を追いかけ続けます。
夢を達成するために、というよりは、夢を追いかけているその瞬間そのものにわくわくし続けられるように…!
それでは夜も更けてまいりましたので、みなさんよい夢を!
(親父ギャグじゃないですよ!あ、そもそもどこが親父ギャグなのかわかった方は鋭いですね!もしくは思考回路がわたしと似ていますね!照)