樺沢紫苑氏の『精神科医が見つけた3つの幸福 最新科学から最高の人生をつくる方法』を読んだので、まとめてみました!
3種類の幸福
「幸福とは何か」の問いに対して、樺沢さんは下記のようにおっしゃっています。
ドーパミン、セロトニン、オキシトシンが十分に分泌されている状態で、私たちは「幸福」を感じる。つまり、脳内で幸福物質が出た状態が幸せであり、幸福物質を出す条件というのが「幸せになる方法である」と言えます。
▲『精神科医が見つけた3つの幸福』より
幸福の優先順位を間違えると不幸になる
セロトニンとかドーパミンとかいう言葉はなんとなく聞いたことがあるのですが、上図のように綺麗にまとめられていると、なんだかスッキリしますよね。
そしてなにより、次の言葉が響きました。
幸福には優先順位があり、優先順位を間違えると不幸になる。
ふむふむ...!
幸福になるための優先順位とは、セロトニン的幸福(心と体の健康)→オキシトシン的幸福(つながり・愛)→ドーパミン的幸福(成功・お金)」の順番。
ほほう!!!
「幸福の優先順位」という概念は今まであまり意識したことがなかったのですが、今まで感じていたもやもやを言葉にしてくれた気がして、なんだかすごくスッキリしました。
「富と名声ばかり追い求めて家族をないがしろにしてる人ってどうなんだろう」とか「とはいえ夢を追っている人ってカッコよく見えたりするよな」とか考える中で、「自分の夢を追いつつ家族や周りの人を大切にする、つまり両立することが幸せなんじゃないか」みたいに考えていました。
「夢を追うこと(ドーパミン的幸福)と大切な人との時間を大切にすること(オキシトシン的幸福)は同列で同時並行できる」と思っていましたが、樺沢さんいわく、幸福には優先順位があって、優先順位を間違えたら不幸になるとのこと。
セロトニン的幸福(健康)を無視してドーパミン的幸福(成功・お金)を目指したり、オキシトシン的幸福(大切な人とのつながり)がままならない状態で一過性のドーパミン的幸福を追い求めても幸せにはなれないぜってことらしいです。
「幸福にも優先順位がある」というのはまさにその通りすぎて、その通りですね...!
言うは易く行うは難しなので、アリの行進ごとくちょっとずつ実践していけたらな、と思います(アリの行進は意外と早かったりして... アリさんソーリー)。
自己成長するか自己破綻するかはドーパミン次第!?
「富と名声ばかり追い求めて家族をないがしろにしてる人ってどうなんだろう」
「大義名分のために身を粉にして働いている人は素晴らしいし素直に尊敬するけれど、果たして死ぬときに後悔しないのだろうか」
こんな疑問を抱いてきました。
こういった疑問は、大人になって自分が「思っていたよりもフツーの大人」でいることに対する現実というか痛みを和らげるために、「すごい人」に対して「ほんとにアイツは幸せなのか」と疑問を投げかけることで自己肯定しようとしていることの現れにすぎないのかもしれません...
ただ、「遠くの大きいことを目指している人って、身近の人をおろそかにしがち」というのは、当てはまらない人もいれば、当てはまる人もいる気がします。
単に余裕がなくておそろかにしてしまっているだけの人もいれば、そもそも遠くの大きいことの方が大切で優先順位が高いって人もいるでしょう。
ただ、かの有名なスティーブ・ジョブス氏も「もっと娘と一緒に過ごせばよかった」と言っていた(らしい)ように、全力疾走している間は「これでいいんだ、これが正しいんだ、これが自分にとっては幸せなんだ」と思っていても、いざ立ち止まって息を引き取る瞬間を迎えてみると、もしかしたら「もっと大切なことがあったんだ」と気づくこともあるかもしれません。
そんな中で、樺沢さんのこの言葉がスッと胸に沁みました。
ドーパミンは私たちに「自己成長」を引き起こしてくれる一方で、使い方を間違えると「自己破綻」をもたらします。ドーパミン的幸福をどのように得て、どう付き合っていくかは、人生において非常に大きな鍵を握っているのです。
大義名分を追いかけることは決して悪いことじゃないけれど、承認欲求に溺れては危ないよ、みたいなことが書いてあったので、気になる方は本を読んでみてください(急に投げやりでごめんなさい、でもこれも愛のムチ... ※ほんとは眠くなってきただけ)。
わたしは、よく想像するんです。
自分が死ぬときに、自分が勝ち取ったトロフィーの数々を眺めながらたった1人で息を引き取るより、トロフィーが1つもなくても大切な人に囲まれて息を引き取るほうが自分にとっては幸せだろうなって。
ただ、今ふと思いました。
『トロフィー=自分の功績』だとすれば、どれだけトロフィーが飾られていても愛し愛してくれる人が1人もそばにいないのであれば、むしろそのトロフィーは「功績を追い求めすぎた代償」として虚しさの象徴になってしまう。
そんなトロフィーを追い求めるぐらいなら、大切な人との時間を優先したほうが絶対にいい。
でも、もし『トロフィー=自分が手を差し伸べた人の顔を連想させるサムシング』だとしたら?
トロフィーをもらうことが目的の人生なのではなくて、誰かに貢献しようと奔走して、その結果たまたまもらったものがトロフィー。
結果としてもらったトロフィーが並んでいる分には、虚しくならないのかなあと思いました。きっとそこには、自分が今まで手を差し伸べてきた人が駆けつけてくれてるはずだから(希望的観測)。
自分は、人生最期の瞬間にはドーパミン的幸福よりもオキシトシン的幸福を重視しているんだろうなあって思うのですが、とはいっても1度きりの人生、何かに挑戦するときのワクワクだったり無謀に思える夢に挑戦するときの高揚感だって感じたい。
だから、ドーパミン的幸福を悪と捉えて排除しようとするのではなくて、ドーパミン的幸福も大切にしたうえで、オキシトシン的幸福は絶対死守する。
そんな風に生きられたらいいですね!
※ドーパミンとの付き合いについては、本に詳しく書いてあるので、よかったら読んでみてください(回し者ではありません。だってこのブログに広告はつけていないのだから!ふはははは...)。
0時を回っていることもあり雑な文章になってしまってジャンピング土下座なのですが、幸福の優先順位はぜひ意識したいな、と思ったのでした!ではではっ!