突然ですが、幸せってなんだと思いますか?
幸せの定義は人それぞれですが、「幸せ=ポジティブな何か」ってイメージをもっている方が多いのではないかと思います。
いうなれば、喜怒哀楽から「怒」と「哀」を排除して、「喜」と「楽」を残したもの。
ただ、もしそういう状態のことを幸せと呼ぶのだとしたら...
それって本当に幸せって言えるのでしょうか?
もし「怒」と「哀」を徹底的になくすことができるのであれば、もし毎日が「喜」と「楽」で埋め尽くされるのであれば、それは確かに幸せかもしれません。というより天国のように思えます。
ただ、「怒」と「哀」がない人生なんて、結構なレベルでありえない。
もし仮にありえたとしても、何千年も前から「怒」と「哀」という感情と向き合って生きてきた人間から「怒」と「哀」を取り上げてしまったら、多分心のどこかに穴が空いて、何かが足りないような、不思議な虚無感を感じると思う。
つい最近アカデミー賞にノミネートされた「かぐや姫の物語」を観たのですが、ラストのシーンで出てくる天人(=月の住民)の表情からは、「怒」と「哀」も感じられません。その代わりに、悟りを開いたような涼しい顔で平然としています(まるで仏のようでした。ん、というより仏っていう設定なのかな?)。
とにもかくにも、そのシーンで「天人の音楽」という音楽が流れるのですが、その音楽が絶妙に淡々としており... 真意のほどはわかりませんが、作曲家である久石譲さんがかぐや姫の映画監督より「感情のない音楽をつくってくれ」と言われて作ったのがこの「天人の音楽」らしいです。
「天人の音楽」は、その名にふさわしく、見事に「怒」と「哀」を抜いた明るいメロディーではあったのですが...
洗脳されたパペット人形のように明るい音楽を演奏する姿には、喜怒哀楽の「喜」の要素をあまり感じられず... 結果、ただ「楽」だけがそこにあるような気がしました。
苦労もないけれど喜びもない。
無感情だからこそ楽でいられる。
そんなちょっとした切なさを感じさせる音楽でした。
多分音楽単体で聴いたらそんなことは思わないんだろうけど、あのラストシーンに流れた音楽だからこそ、そう思うんだろうなあ。
怒りとか哀しみとか、いわゆる負の感情がなかったらどんなに幸せだろうって思うけれど、怒りも哀しみもなく、ただただ快楽にだけ浸る毎日って、なんだかそれはそれで心が麻痺しているようで危機感を覚える気がします。
ちなみにこの記事は、YouTubeにアップされている天人の音楽のビデオに対して「喜怒哀楽の楽だけを残したみたい」というコメントから刺激をもらって書きました。
幸せって、常に幸せを感じることではなくて、喜怒哀楽が順不同でランダムにやってくる人生を全力で生きることなんじゃないかなあって思います。
辛い状況にいるときは、到底「自分今幸せだあ」なんて思えないかもしれません。
でも、辛い状況が過ぎ去った後は、「あのとき自分頑張ったなあ」とか、「辛かったけどみんなで励まし合って乗り越えられたのは、今となってはいい思い出だなあ」とか...
そんな幸せな哀愁に浸れる気がします。
もちろんよほど辛いことがあったときは、どんなに時間が経っても心の傷は癒えないだろうし、そのできごとが起きてよかっただなんて到底思えないと思います。
ただ、人生のどん底を知っている人だけしか感じられない幸せがある。
冷たい冬を知っているからこそ春のあたたかさが身に沁みるように、周りの空が真っ暗だからこそ星が輝くように、幸せもまた、辛い感情を知っているからこそより強く感じられるもの。
辛い感情を知らなくても幸せを感じることはできると思うけれど、傷口が深ければ深いほど、幸せがやけに沁みる。
あ、ちなみに... わざわざ自分から辛い道を選ばなくても、生きていれば自然と人生の試練は訪れるもの。だから、幸せを感じるためにわざわざ辛い境遇に身を置こうとかそういうことは考えなくていいと思います。
物質的に恵まれてもなお幸せを追い求める人々が、なぜ幸せを感じづらくなってしまったのか。
それはきっと、幸せとは負の感情がない状態っていう解釈をしちゃったから。
負の感情があるからこそ幸せなことが起きたときに愛おしいと思えるし、そもそも常に負の感情は抱かずハッピーでいろって言われても無理な話。
生きていく上で負の感情はおのずと湧き出てくるものなのに、それを一切排除しようとする。そんな姿勢にわたしたちはストレスを抱えているのかもしれません。
みなさん、ネガティブになってもいいんです。
だって、幸せって、別に常に幸せと感じることではないから。
喜怒哀楽の波乗りを楽しめる、そんな波乗りジョニーを目指して...
(意味わからないですね、すみません... 眠気がピークに達したので寝ます!)
おやすみない!