北極星のみつけかた|yuzubaby

自称宇宙人のゆとり世代が書く雑記ブログです。

北極星のみつけかた

『言葉の温度』が教えてくれる、SNSで発言するということ

みなさん、こんにちは!
突然ですが、『言葉の温度』という本を読んだことはありますか?
 
韓国のイ・ギジュさん著の『言葉の温度』。
SNS時代に生きるわたしたちにとって、とても大事なことを思い出させてくれる本。
言葉の温度について考えさせられるエピソードが詰まった本です。
詳しくは割愛しますが、リンクを記事末尾に貼っておくので、ぜひ読んでみてください。
 
さてさて、なんでこの本をおすすめしたいかというと...
本のタイトル通り、『言葉の温度』について備忘録を残しておきたいと思ったから。
SNS時代に生きる同志として、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。
 

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本日のテーマは、『SNSでの発言』について。
絶えないSNSでの芸能人叩き。SNSでのいじめ。
SNSがなかった時代から、そういった批判やいじめは存在していたかもしれません。
そう、SNSが悪いワケじゃないんです。
SNSは、あくまでも言葉を共有しあう『場』でしかないから。
 
じゃあSNSの元凶は何か?
ひとことで言えば、『人』です。
SNSという場で発言しているのは、『人』だから。
 
「そんなこと、とっくにわかってるよ!」
「説教がましいんだよ、バッカじゃねーの!」
 
なんてお声が斜め左(と時々右)から飛んできそうです。
ごめんなさい。わたしのことはお説教オバタリアンとでも呼んでくださいまし...
 
ただですね、なんか書いておいた方がいいと思ったんです。
 
これはSNSに限ったことではないのですが、
相手の顔が見えないオンラインという場での発言は、いつもより鋭くなりがち。
すると何が起こるかというと、多分、心がやけどしちゃうんです。
言葉の温度が熱くなりすぎるから。
または冷たすぎて心が凍り付いてしまう。
 
どちらにせよ、言葉の温度が一定値を超えると、人は傷を負ってしまうそして難しいのが、その閾値」は、人によって違うということ。
 
あえてやけどするとわかっていながらも、本意で熱すぎる温度の言葉を投げることもあれば、自分にとっては生ぬるい温度のつもりでも、相手にとっては熱すぎる言葉を不本意に投げることもあるかもしれない。
 
国民的大ヒットアニメ映画である『図書館戦争』の中で、心にガツンとくるセリフがあります。それは...
 
正論は正しい、だが正論を武器にする奴は正しくない
 
この言葉を『言葉の温度』にあてはめると...
 
何か悪いことをした人がいたとします。
そして、その悪い人がSNSで批判されているとします。
みなさんは、どうしますか?
参戦しますか?傍観しますか?
 
この質問に答えるにあたって、考えたいことがいくつかあります。
・本当に、その人は悪いことをしたのか?
・そもそも、それは事実なのか?
・そもそも、何をもって「悪いこと」と定義づけるのか?
 
ここで、有無を言わさずその人が100%悪いことをしたと仮定します。 
みなさんは、SNSでの批判合戦に、参戦しますか?傍観しますか?
 
SNSに何を書き込むかは、確かに自由です。
だから、SNSで誰をどう称えようと叩こうと、自由だという人もいるかもしれない。
SNSでの発言を規制したら、独裁政権の始まりだ、なんていう人もいるかもしれない。
 
ただ、わたしが言いたいのは、そんな難しい理屈じゃなくて、もっとシンプルなこと。
「好きに発言できること」と「好き勝手発言できること」は違う。自由というのは、「人を好きなだけ傷つけていい」っていう許可証ではないってこと。
 
自由を与えられているということは、ある意味恐ろしいことだと思うんです。
なぜなら、自由を与えられた時点で、自分の発言責任が(たとえば)政府から自分に移籍したということだから。自身にあるということ。
 
それでも人は自由を求める。
だったら、自由の恐ろしさを自覚して、自分自身でコントロールすることが大事。
 
SNSで人の悪口を書き込むのは一切禁止にしろと言っているのではありません。
ただ、SNSで、誰か悪いことをした人(もしくは悪いことをしたとみなされている人)を自らの言葉で叩くとき、わたしたちは、「悪人を裁いている善人として、なんでも言っていいんだ」という恐ろしい勘違いを捨てた方がいいということ。
 
自分は正しいことを言っているつもりかもしれない。でも、正論は正しいかもしれないけど、正論を武器にするのは正しくない。その言葉は、相手をやけどさせてしまうかもしれないから。
 
「やけどを負うほどのことをした奴だ、自業自得だ」
 
そう思う人もいるかもしれない。
ただ、真実は本人にしかわからなかったりするし、虚構のウワサをもとに誰かを叩くのは、やっぱりイケてない。虚構のウワサが本当だったとしても、自らの言葉を使って誰かにやけどを負わせることは、本当にわたしたちにとって意味のあること?
 
世の中には、建設的な批判というものもあるかもしれない。
愛のない建設的な批判は、ただの批判でしかない。
 
人は、批判によって気づくことがある。改めることがある。
でも、その人は、批判を受け止めてポジティブに変換できる精神状態ではないかもしれない。
どんなに愛のある批判でも、その人にとっては、その「愛」を感じる余裕がないかもしれない。
 
だから...
SNSとかメールとか、相手の顔が見えない状況で何か発言するときは、いつも以上に「自分の言葉の温度」について考えたいなって思います。
 
ではでは、達者でな!(←アディオスに次ぐ新たな合言葉!)
 
言葉の温度

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