みなさんは、今の世の中に対してどう思いますか?
スマホで誰とでもすぐにつながれて、ワンクリックで好きなものが家に届く。
すごく便利な時代です。
ただ、忘れてはいけない、というより忘れたくないことが2つあります。
1つ目は、決して誰しもがその便利さを手にできているわけではないということ。
2つ目は、便利さと引き換えに失っているものもあるということ。
今日の記事は、もしもなんとなく「現代ってなんか生きづらいなあ・・・」と感じている人がいたら、ぜひ読んでみてほしい内容です。
こんなに便利な時代が生きづらいだなんて、甘えてる?
とっても便利な時代。この時代が生きづらいなんて、団塊世代の人には信じられないかもしれません。「これだからゆとり世代は・・・」って思うかもしれません。
それか、もしかしたら団塊世代の人も、それより上の年代の人も、なんとなく今の時代は生きづらいって思っているのかもしれません。
とにもかくにも、確かに戦時中に比べたら、今の日本は本当に平和だし、戦後のバブル時代に比べたら、国を活気づけようという団塊世代が放っていた熱意みたいなものは今の時代には足りていないのかもしれません。
自分が好きなことを自由にできる若者を見て、純粋に羨ましいと思ったり、好き勝手に生きやがって・・・って思う人もいると思います。
ただ、こんな便利な時代に生まれたわたしたちは、前の世代の人たちとはまた違った悩みを抱えていると思うんです。
衣食住が揃っている限り、息をしている限り、今の若者が抱いている悩みなんて大したことないー
そう思う人もいるかもしれない。確かにそうかもしれない。
ただ、さっき言ったように、全体的には世帯収入があがって豊かになったかもしれないけど、今でも日本に相対的貧困は存在するということ。
もちろん努力次第でなんとでもなるという人もいるかもしれないけど、人生いつどうなるかわからないし、どんなに頑張っても報われないときもある。
特に子どもは生まれる場所を選べないから、貧困家庭に生まれたら、少なくともまだ働けないうちはなんとか貧困をしのぐしかない。
いつの時代に生まれようと、人間誰もが何かしらの事情や悩みを抱えてもがいている。中には、衣食住さえもままならない人もいる。
だから、確かに今の時代は前に比べたら多くの人が物質的に「恵まれている」のかもしれないけれど、「恵まれている」と感じているわけではないということは、頭の片隅に入れておいてもいいかもしれません。
便利さと引き換えに失ってるものってなんだろう?
そして今日特に伝えたいことは、いろいろ発展して便利な世の中になりつつあるかもしれないけれど、便利さと引き換えに失っているものもあるということ。
わたしたちが夢見てきたその「便利な世界」がときに若者にとって生きづらい世界をつくってるかもしれないということ。
今は、いろいろな「~したい」がカンタンに手に入るようになった時代。
そんな時代だからこそ、カンタンに手に入らなかったときに人はイライラする。
そしてそんなイライラが結局は自らの首を絞めることになる。
確かに、自分の思い通りになる世界は魅力かもしれない。
でも、思い通りになればなるほど、ならなかったときの打撃が大きい。
思い通りにならなかったときの免疫力がつかない。
自分のやりたいことが自由にできるようになった現代。
自分の好きなこと、やりたいことを自由に追求できるようになった若者。
もちろん、中には好きなこと、やりたいことを自由にできない人もいる。
ただ、傾向として、以前よりは多くの人が好きなことを追求できるようになった。
そのこと自体は素晴らしいことだと思う。
ただ、自由な世の中はイケてるけど、便利な世の中はイケてない。
便利にすべきもの、便利にすべきではないものがあると思う。
便利にすることで失うものがあるから。
それは努力だ。
何かをつかみ取るための努力だ。挑戦だ。
頑張ったからこそ、得られたときの喜びは大きい。
頑張ったからこそ、乗り越えたときの感動は大きい。
頑張ったからこそ、身体の内から湧き上がってくる感情がある。
便利さは、ときにその感情をせきとめてしまうことがある。
自分で何も努力しなければ、別に何かを得られたときにそこまで感動しない。
だから、便利な世の中は素晴らしいと思うけれど、そこまで憧れないのかもしれない。
現代を生きるわたしたちの責任ってなんだろう?
「働く」という言葉は、ハタをラクにする、という言葉から生まれた。
今のビジネスは、ハタを大いにラクにしていると思う。
衣食住の基本的なものがカバーされきった今、いろんな企業が取り組んでいること。
それは、人の生活にいかに付加価値をもたらすか。
付加価値の中にもいろいろある。
そして付加価値の代名詞が「便利さ」なんじゃないかと思う。
多分、世の中が便利になること自体は決して悪いことじゃない。
ただ、すべてを便利にしようとするのは、なんだか悪だと思う。
便利にすることで、頑張ったことによって得られる大きな喜びが失われるから。
何を便利にして、何をあえて便利にしないのか。
ハタをラクにすることがビジネスの根幹にあるのなら、人の生活をより便利にしようと取り組んでいる企業の人たちには、考えてほしい。もちろん、自分も含めて考えたい。
わたしたちは、何を便利にして、何を便利にしないべきなのか。
そのハタをラクにすることは、本当にそのハタのためになるのか。
ビジネスはやっぱり利益を出さないと行かないから、ハタのためにならないとしても、そのハタからお金をもらえるなら、そのハタをラクにし続けるのかもしれない。
ビジネスは決して悪じゃないと思う。
社会人になってそう思えるようになった。
でも、気を緩めていると、ビジネスって簡単に悪に染まってしまうと思う。
人は数値目標を与えられると、その目標を達成しようと頑張る。
そして頑張っているうちに、手段を選ばなくなるときがある。
そうこうしているうちに、ビジネスの本来の目的が、お客さんのためではなく、利益の追求にすり替わる。
責任のあるビジネス。
それは、決して決算書で嘘をつかないとか、不正を隠蔽しないとか、透明性を保つとか、そういうことじゃないと思う。
それは当たり前だから。
責任のあるビジネス。
それは、本当にこれが人のためになるのか、考えられるビジネスだと思う。
色々理屈っぽいことを書いたかもしれないけど、便利さと引き換えに、頑張るという営みが人の中から消えてしまうことが怖いだけなんだと思う。
今も昔も頑張る人はいっぱいいる。
頑張る方向性とかベクトルとかは違うかもしれないけど、みんなそれぞれ頑張ってる。
それは重々わかってる。
だけど、だからこそ、生活のあらゆる面をすべて便利にするんじゃなくて、何を便利にすべきで、何を便利にすべきじゃないのかっていうことを、たまにでいいから考えてみることが必要なんだと思う。
もちろん、その答えは人によっても違うと思う。
だから、たとえ生活のあらゆる面がどんどん便利に侵されていったとしても、自分はどの便利さにあやかって、どの便利さをあえて選ばないのか、それを決める判断基準が自分の中にあればいいんだと思う。
頑張ることを通じて、人は喜びも苦しみも味わう。
頑張ることを通じて、人はたくさん考える。
頑張る、感じる、考える。
そんなシンプルな営みが、人生を深く満ち足りたものにしてくれるんじゃないかと思う。
意識を高くもつというより、意識を深く掘り下げていく。
意識を深めていく。
そうすることによって、人として熟成していけるんじゃないかー
そう思った土曜日の夜なのでした...
(お前誰だよって感じですみません。笑)
アディオス!