Life is About Balance: Golden Rule of Life that is Not Black or White Itself
黄金律って、あると思いますか。
「この世に絶対はない」
よく聞くフレーズですよね。
確かに何事にも絶対はないのかもしれませんが、全人類に共通して言えることってあると思うんです。
もちろんこの地球上に住む60億人全員に共通して言えることかはわからなくても、大勢の人に共通して言えること。
自分にとっての黄金律は、「バランス」です。
黄金律と言っておきながら後から考えが変わるかもしれませんが、バランスって大事だなあって思う瞬間が幾度もありました。だから多分「バランス」はわたしの中での黄金律なんです。笑(←ロジックが崩壊していますが、まあそういうことなんです。笑)
バランスとは何かというと…
片方に偏りすぎてもうまくいかないし、もう片方に偏りすぎてもうまくいかない。だからうまく両方を司ってバランスをとる。
はい、既知の事実ですよね。はい。笑
I. 価値観は作るものではなく、冒険するもの?
バランスといえば、価値観においてもバランスが必要だなあって。
生きている中で、たまに自分の考えとは真逆の人に出会うことがあります。その人の考えに全然納得できず、「一生この人が言っていることは理解できないな」って思う瞬間。
ただ、自分とは異質のものと出会った瞬間のことは意識レベルでも潜在意識レベルでも刻まれているもので。時が経って、自分のいる境遇が変わって、一緒に過ごす人も変わって、いろんな経験をして… ふとした瞬間に「あ、あの人が言っていたことってこういう意味だったのかな」って思うことがあります。
もちろん自分の価値観に固執する人もいるだろうし、よく「歳をとると頑固になる」と言うように、時が経つにつれて過去の経験則をもとに価値観をより強固にしていく人もいるでしょう。
ただ、少なくとも個人的には24年間生きてきた中で価値観の変化を経験しました。そんな中で感じたことは、最終的にはグレーゾーンに落ち着くということ。歳を重ねれば重ねるほど、考えも性格も白黒はっきり分かれるものかと思っていましたが、むしろグレーゾーンで落ち着くことが圧倒的に多いなあって。
出発点が北極であろうと南極であろうと、必ず南下または北上して対極に辿りつき、最終的には中間にある赤道に落ち着く。
グレーゾーンに落ち着くことで、世間からは「優柔不断」や「どっちつかず」だと言われるかもしれない。でも、白と黒をどっちも知っているからこそ、グレーになることができる。どちらか1つが欠けていたら、グレーになることはできない。
何が言いたいかというと、価値観がグレーゾーンに落ち着くということは、人生において価値観が白寄りになったり黒寄りになったりしたとしても、ある意味「いつでも回帰できるホームベースを持つこと」と似ているなあって。
「自己主張」というタイトルのもとで、自分の意見を持っていないと一人前の人間として認めてもらえない風潮がありますが(←日本ではまだそんなことはない?)、無理矢理価値観に白黒つけようとする必要はないと考えています。もちろん白黒つけるかは当人が決めればいいことだし、白を信じている時期があれば黒を信じている時期があってもいいと思います。
ただ、テーマは何であれ、今まで辿ってきた価値観の変化を振り返ってみると、こんな現象が起きています。
1)白を信じる
2)黒を信じる
3)白でもなく黒でもなく、第3のグレーゾーンに落ち着く
語弊が生じそうなので例を述べるとすると…
テーマが人生観だとした場合、こんな感じで価値観が変わっていきました。
1)人生は人のために捧げるものである
2)人生は自分のために楽しむものである
3)人生では、周りの人のためではなく周りの人を意識した上で、自分が好きなことを楽しめばいい。その延長線上で誰かを感化できたり励ましたりできればいい(そう、ダンサーのように...)。
1)を生涯貫く人もいれば、2)を生涯貫く人もいるかもしれないし、そもそも1と2の切り分けが違ったり、全く異なるグレーアンサー3)に辿りつく人もいるかもしれません。白と黒を模索してみた上で辿りついたグレーさえも、価値観を覆すようなできごとによってまた変わるかもしれません。
だからこそ、もし自分が先生になるとしたら、あらゆるものに対して白黒はっきり意見を見出せる力を教えるよりも、白も黒も模索した上で、間には幾層ものグレーゾーンが存在するということに気づける力を養ってもらいたいです。
歳を重ねれば重ねるほどに確固たる価値観を持つのではなく、歳を重ねれば重ねるほどに固まりつつある価値観を疑える人でありたいです。
II. 価値観の違いは善でも悪でもない
「価値観の違いで別れました」
よくTVの離婚会見で聞く言葉。
子どもの頃は「価値観の違いってなあに?」と思っていましたが、(法令上は)大人になってから「価値観の違い」について分かるようになった気でいました。
ただ、最近ふと思ったことは、価値観に違いがあること自体に問題があるというよりは、価値観の違いに向き合おうとしなかった(または向き合ってもうまくいかなかった)ことが問題なんだろうなあって。
もちろん自分自身も偉そうなことは言えないし、周りの人との価値観の違いに真意に向き合っているかといえば、まだまだ全然だと思います。
ただ、価値観に違いがあるからといってその人を避けたり縁を切ったりすることって、もったいなあって。だから、価値観に違いがあること自体は問題でもなんでもなく、価値観の違いに対してお互いが向き合えるかどうかがカギだと意識する人が増えるだけでも、価値観が自分とは異なる異質の相手を排除しようとする動きが弱まって、きっともっと平和な世界になるのになあって。もちろん相手が向き合おうとしなければ成り立たないかもしれないし、だからこそ結婚では価値観の違いにどちらか1人が向き合おうとしないだけでもうまくいかないのかもしれませんが、価値観の違いの狭間を彷徨うことって、そう悪いことでもない気がします。
III. 価値観にもグレーゾーンを
価値観をめぐって誰かと議論することで新たな気づきを得られるし、価値観が違う人が集うからことそ、モノクロ単一ではないカラフルな世の中になる。
ただ、価値観をめぐって議論するのはよしとしても、喧嘩するのはどうなのかなと…
可愛い喧嘩(←もしそんなものが存在するとしたら、ですが…笑)ならいいとしても、価値観の違いで戦争するのはバカバカしいなあって(もちろん建前上では「価値観の違い」のせいにしつつも、本音では資源だったり権力だったりといった「欲望」が戦争の真の原因かもしれませんが、難しい話は一旦ハコに閉じ込めておきます… あ、ハコをまずは注文しなくては...)。
どうせ変わるかもしれない価値観をめぐって喧嘩するぐらいなら、喧嘩というよりも、互いに価値観をぶつけ合って、相手の価値観を聞いて、心に留めておけばいい。
大切なのは、自分が白を信じていようが黒を信じていようが、いつかは辿りつくかもしれない「グレーゾーンの存在」を常に知っておくこと。もしグレーゾーンに辿りつくことがなくても、「自分の価値観は絶対ではない」ということを嘘でもいいから心に留めておくことが、人と人の関係をよくしていくのかもしれないですね!(エアコンを消した部屋の中で書いて余力が瀕死状態だったので、雑に終わらせましたごめんなさい…)
抽象的極まりない記事となってしまいましたが、今後もよろしくお願いします!(←誰かが読んでくれている、または記事をすっ飛ばして1番下までスクロールしてくれたと信じて...笑)