北極星のみつけかた|yuzubaby

自称宇宙人のゆとり世代が書く雑記ブログです。

北極星のみつけかた

るろうに剣心から学ぶ、誇りを捨てるか持って生きるか

Rurouni Kenshin: Essential Life Lessons from the Japanese Materpiece

 

プライベートと仕事で心が斬られっぱなしで、そんな中で観た「るろうに剣心」。

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中高時代は我慢していたことも、大人になるにつれて、我慢せずに心の内を言葉にして発散するようになり

 

母から「人が変わった」と言われる始末に。

 

以前のブログ投稿で「生きる上で大切なことは、生きる意味探しよりも、生きる指針探し。なぜ生きるかではなく、どう生きるかが大切」とお説教がましいことを書いたわけですが、最近は補足で思うことがあります。

 

「生きる指針を見つけたところで、生きる原動力がなければ生きていけない。」

 

どんなに気合を入れて腕まくりをして船に乗り込んだところで、北極星を追いかけようと発進しても、原動力がなければ船は動かない。「こんな人でありたい」との指針はあっても、逆境においても「こんな人」であり続けるための原動力がなければ、うまくいかない。

 

自分が発した言葉ながらにも、「生きる指針を見つければいい」って言葉がキレイゴトに聞こえるのは、きっと原動力について考えられていなかったから。

 

前置きが長くなりましたが、るろうに剣心を通じて考えたことを書く中で、生きる原動力について妄想してみます。

 

相手が理不尽でも、自分の「こんな人でありたい」を貫く原動力とは

 

以前はプライドがありました。

どれぐらい以前かっていうと、大学時代ぐらいまで。

こういう人間でありたい、自分が正しいと思うことを曲げずに生きていきたい。そんな武士(いや、落ち武者?)的な考えがありました。

今でも同じような考えはあります。ただ、前と比べると、だいぶ減った気がします。

自分に対する誇りだったりプライドだったりというのは、時に人と衝突する原因になったりしますよね(え、しない?)。

たとえば、自分が誇りに思っていることを他人から否定されたり、誰かにひどいことをしてしまったときに自己嫌悪に陥り、プライドが傷ついたり。

不満があれば人に直接言うようになった回数は増えましたが、その分堪忍袋の尾が緩み、人としての器がビッグバンの逆バージョン的な速さで縮まった気がする今日この頃。

 

「我慢しないようになったなら、それでいいんじゃない?」

 

悟りを開いた方からはこう言われるかもしれないし、ずっと我慢して我慢していつかは爆発するぐらいなら、こまめにガス抜きした方がいいと思います。

それに、我慢したからといって必ずしも事態が好転するとは限らない。

 

「我慢すれば、自分だけが犠牲になれば済む。」

 

博愛精神だけで言っているのか、自己犠牲精神に酔っているのかは未知数ですが、我慢することで起きる弊害もあるのでは教えて、おじーいさーん(家庭教師のトライのハイジCMより)。

自分だけが我慢すればその場は一旦落ち着くかもしれないけれど、相手は?

相手はどんどん調子に乗ってしまうかもしれない。そして自分以外の誰かに対しても同様の態度を取り、その誰かがまた我慢しなくてはならないかもしれない。

我慢する人の数だけ、我慢しない人の数も増える。

どんな状況下でも言えることではないものの、自分が我慢したら結局自分のためにも相手のためにもならない可能性だってある。

自分だけが我慢すればいいなんて、結局はエゴだなって思ってしまいます。もちろん、揉めごとが起きたときに、ラチが明かない議論を延々と続けるぐらいなら、いっそ一瞬我慢して争いを終わらせてしまいたいって気持ちはあるかもしれない。

でも、我慢した経験って、その人の心に積み上がっていくものだろうなあって(我慢したことを忘れて楽観的に生きていられる強者も中にはいるかもしれませんが)。

短期的にはよくても、長期的には自分にとっても相手にとってもよくない結果を招いてしまうぐらいなら、

 

我慢することって、逆に逃げ。

 

ただ、「我慢しないことが1番だぜ!」って野放しに賞賛したいわけでもないんです(「じゃあなんなんだよ、お前は一体何が言いたいんだよ!」なんて声が聞こえてきた気がしますかたじけない... まあ、落ち着いてください)。

 

我慢にも種類があって、大きく2つに分けるとしたら、

1)自己犠牲精神からくる我慢

2)自己肯定精神からくる我慢

 

1については言わずもがな(さんざん前述してきたやん!と思われた方、キレッキレのツッコミありがとうございます)ですが、2については諸説あります。

 

というのも

もし、「相手に何を言われようとされようと関係ない。自分は自分だから、相手を無視する」といったプライドがあるとします。

「そんな些細なことじゃカッとなりませんから!」的なプライドですね。

そんなプライドがあれば、相手と揉めそうになったときも、その場を早く落ち着かせたいから、というよりは、そんなつまらない喧嘩買わないから、という理由で揉め事には発展しないかもしれない。

このときに発動した我慢は、自己犠牲からくる我慢というより、むしろ自己肯定(プライド)からくる我慢。

相手にキレたり怒鳴り返したりしないという点では、自己犠牲の我慢も自己肯定の我慢も一緒だろうし、相手の怒りを相手にしないということは、結局揉め事の根底にある原因解決にはつながらないかもしれない。

ただ、相手の言うこと為すことにいちいち反応して喧嘩するより、自分は自分の精神を貫くことは、生きていく上で必要なスキルな気がします。

誰かから理不尽なことを言われたり、嫌なことをされたりしても、相手の言動1つ1つに反応するのではなく、自分の誇りを忠実に守り、「相手に何をされようと自分は自分」という姿勢を貫く。

身の回りで起こるすべてのことにいちいち過剰反応していたら、環境に左右される相対的な人間になってしまい、環境次第では自分がダメになってしまうから(もちろん人間である以上環境に多少なりとも左右されることは全然あると思いますが!)。

 

実際に、わたしが証明です(何かのお化粧品のCMでの決めゼリフ!)。

仕事で理不尽なことを言われたりされたりしたとき、ナメられないように、自分を守るために、自分も相手に言い返すようになっていました。

でも、言い返したところでその場の一瞬はスッキリするものの、相手に対しても自分に対しても嫌悪感が残るだけ。

理不尽にキレられたからキレ返すって、虚しいなあって。

そんなときにるろうに剣心を観て、心が洗浄されました。

相手がどんなに自分を殺めようとしてきても、人を斬れないも同然の逆さ刀で自己防衛し、決して相手を殺めようとはしない。もちろん自分を守るためにかすり傷を与えることはあっても、決して復讐しようと相手を傷つけることはしない。

 

そして思いました。

 

誰かから嫌なことを言われたりされたりしたときは、自己犠牲をもって我慢するのではなく、プライドをもって自己制御すればいい。

 

剣心が言い放った言葉ー

 

人を斬ればそこに恨みが生まれる。恨みはまた人を斬らせる。そのつながりを断つのが、この斬れない刀の役目でござる。

 

言葉も刀のようなもの。誰かを守ることもできれば、誰かを殺すこともできる。剣心を見習って、どんなに誰かが自分に乱暴な言葉を言おうと、自分は正しく刀(コトバ)を扱える人でありたいです。

 

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>続編は、誇りって生きる上での原動力となりうるけど、どんなに相手が理不尽であろうと誇りをもって仏対応するってなかなか難しいよね、じゃあどうしようっていう話なのですが、気が向いたときにでも書きます。

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2018.9.10 追記:生きる原動力とは... の続編については、以下の記事をご覧ください!

yuzubaby.hatenablog.com