北極星のみつけかた|yuzubaby

自称宇宙人のゆとり世代が書く雑記ブログです。

北極星のみつけかた

カナダ留学が教えてくれた、周りが聞きたいことを言わない術

Art of Not Saying What People Want to Hear: Lesson from 1-Year in Canada

 

生きていると、なんだか生き心地が悪いと感じることがあります。

 

生きているだけで、命があるだけで、どれだけありがたいことか。ただ、大人になってからますます生きづらいと思うことが多くなりました。

 生きづらいと思う理由は人それぞれだと思うのですが、まあ歳を重ねると「これぐらいできて当たり前だよね」「これぐらいやって当たり前だよね」みたいな周りからの圧(=人はそれを「周りからの期待」と呼ぶしみじみ)みたいなのが増えますよね。

 

本日はですね、生きていく上で必ず出会ってしまう「周りからの期待」をテーマにつらつらと書きたいと思います。

 

I. 周りが聞きたいことより、自分が言いたいことを言う

 

究極にプライベートなことでものすごく恐縮ですが、この記事を渋谷のカフェで1人つらつらと書くことになったきっかけは、母と喧嘩したときに言われたひとこと。

 

「留学になんて行かせなきゃよかった。留学に行ってすっかり変わっちゃって。」

 

留学から帰ってきた人にどうだったかと聞いて返ってくる答えは、大体パッとしなかったか、めっちゃ楽しかったかの2つ。もちろん留学に行ったはいいものの、現地の人々と打ち解けず、語学力もあまりよくならなかった、なんてケースもあると思います。

 

ただ、留学に行くと何かしらの「経験」は得られるわけで、経験したことを1つ1つ丁寧に噛み砕いていけば、やがて経験が学びに変わるわけで… なんて考えていたら、留学はなんだかんだ人間性により深みを与えてくれる絶好の機会。

 

自分にとっての留学とは、言いたいことをはっきり声にして言うことを学んだきっかけでした。自身の口癖は「大丈夫」で、決して自分が大丈夫じゃないときでも「大丈夫」と言うことで説明責任から逃れていたし、自分自身の殻にすべて押しやって誰かが中身を覗こうとするのを阻止していました。たとえば中高6年間のこと。両親の離婚のことを友達に相談というか聞いてほしかったときも、母から家族のことは誰にも言わないようにと言われていたので、生真面目に母の言葉を忠実に守り、どんなに仲がよかった友達にも自分の心情を打ち明けることはありませんでした(大学生になってからは気にせず言うようになりましたが)。母が家族のことを誰にも言うな、と言っていた言葉の裏には、いろんな気持ちが入り混じっていたと思います。世間体を気にして言うなと言っていたのかもしれないし、自分が離婚したかわいそうな母親だと周りから囁かれるのが嫌だったのかもしれないし、「なんで誰にも言っちゃいけないの?」と無邪気に聞いてみたときに「周りからいじめられないようによ、あなたを守るためよ」と返ってきた答えの通り、娘を守るために言っていたのかもしれないし

 

当時よく聴いていたAqua Timezの「決意の朝に」という歌の歌詞に、こんなフレーズがあります。

 

辛いとき辛いと言えたらいいのになぁ、

僕たちは強がって笑う弱虫だ

淋しいのに平気なフリをしているのは、

崩れ落ちてしまいそうな自分を守るためなのさ

 

当時は「辛いとき辛いと言えたらいいのになぁ」の部分にただただ心を揺すぶられ、心情を代弁してくれている歌詞が愛おしくてたまりませんでした。でも、この歳になって(まだ24歳のガキが何を偉そうに言っとるんじゃ、と喝を入れられそうですが)、あるときふと思ったんです。

 

「淋しいのに平気なフリをしているのは崩れ落ちてしまいそうな自分を守るため」

 

この歌詞の通り、中高6年間は家庭のことでいろいろ悩む中でも「平気なフリ」をしていて、「言いたいことも言えない(母との約束を破ればもちろん言えたのですが笑)」ことですごく心細かったし、1人でいろいろと戦っている気がして寂しかったです。

 

当時は、「淋しいのに平気なフリをしていて崩れ落ちてしまいそうだ」と思っていましたが、今から思うと「淋しいのに平気なフリをしていたからこそ崩れ落ちてしまいそうな自分を守れていたのかもしれない」なんて奇妙な感覚に陥ることがあります。

 

まああれですね、何はともあれ、悲しいことがあれば泣けばいいし、悲しい気持ちが誰かに話すことで少しでも柔和されるなら、誰かに話せばいい。誰かに話しても共感ではなく同情されるだけなら誰にも話したくないと思うなら、誰にも話さなくていい。

(自身が考えた「共感」と「同情」の違いは... 前者は「相手がどん底にいるとしたら、相手のいるところまでハシゴで降りていこうとした上で、相手の気持ちになって考えてみること。後者は「相手がどん底にいるとしたら、自分がいる場所から相手のいる場所を見下ろして、相手を「かわいそうだ」と思いながら何もしないこと。)

 

ただ、「淋しいのに平気なフリをして笑っているわたし/俺ってかっこいい」みたいに痩せ我慢するぐらいなら、いっそのこと「淋しければ素直に淋しいと叫ぶ」ぐらいの方がかっこいいとは思います(個人的に)。

 

話が脱線してしまいましたが、なぜ「留学を機に言いたいことをはっきり声に出して言うようになったか」と言うと

 

留学先のカナダで、ある人に言われたからです。

 

「黙っていたら何もわからないよ。」

 

その人と喧嘩したとき、わたしは「大丈夫(It’s okay)」の一点張りで、なぜ自分が怒っているのかも悲しんでいるのかも相手に言わずに、ただただ「1人にして(leave me alone)」と相手を突き放し、1人になろうとしていました。

 

別に部屋で1人しくしく泣いてやろうと思っていたわけではなく、ただ1人になることで頭を冷やして心を鎮めたかったから。

 

でも、「黙っていたら何もわからない。話し合わないと問題は何も解決しない。」

 

そう言われ続けて、気づいたら思ったことを正直に相手にぶつけるようになっていました。

 

言葉は人を喜ばせることもできるけど、ひどく傷つけることもできる。だからこそ、言葉を発する前に「これを言ったら相手はどう思うだろう」みたいなことを考えてフィルターをかけることも必要かもしれません。

 

でも、フィルターをかけすぎて結局「何も言わない」ままだと、問題は何も解決しないし、心の中には「発することのできなかった想い」が溜まっていくばかり。

 

「言いたいことは言う。」

 

このことを教えてくれた人とは、ふくしまキッズという団体主催の「福島の子ども向けサマーキャンプ」で一緒にボランティアしたことがあります。

 

サマーキャンプ中、ある女の子が1人で縁側に座って泣いていたことがありました。

 

ボランティアスタッフが「どうしたの?もう大丈夫だから、みんなで一緒に遊ぼう」と話しかけても、「1人になりたいから放っておいて!」と突き放されるだけ。

 

女の子のことを気にかけながらも、どちらかというと自分自身「何かあったときは1人になりたい派」だったので、女の子の気持ちがわかるような気もしていました。

 

そこで、サマーキャンプ主催者の甥の男の子(日系アメリカ人/Japanese Americanの彼は、血筋は日本ですが、育ちも生まれもカリフォルニア。たまたま夏休みで日本に遊びに来ていました)が放った言葉。

 

「日本人は問題があっても言わない。問題が起きても解決しようとせず、「大丈夫、大丈夫」と何もなかったかのように振る舞うから嫌だ(I don’t like how Japanese people deal with problems. They just pretend that nothing has happened.)」

 

彼の言葉を巡って日本がどうとか日本人がどうとかについて議論するつもりはありませんが、純粋に、妙に、やけにこの言葉が響きました。彼の両親も離婚して、彼の母(日本人)はアメリカ人の男性と再婚したそうで。当時19歳だった彼も、いろんなことを思いながら育ってきたんだろうなあと思わされるひとことでした。

*母校の事務スタッフの方が、日本人の「まあまあ精神(=何か問題が起きても「まあ、まあ、仲よくやりましょうよ」と言って問題を乗り越える精神)」はすごいと思うと言っていたこともあるので、もしかしたらまあまあ精神も捨てたものではないのかもしれませんが

 

とにかくですね、また長くなってしまいましたが、

 

「言いたいことは言う。」

 

この精神を留学で身にまとい始めたからこそ、帰国してからは家族にもはっきりと物申すようになり、あげくの果てには先日母と喧嘩したときにも自分の心の内をなんのお化粧もせずに直にぶつけたからこそ、

 

「留学に行ってから人が変わったわね。」

 

と皮肉たっぷりに言われたのかなあ、と思います。

 

II. 他がままに生きる VS 我がままに生きる

 

期待に応えることって、大変そうで苦しいもののように見えて、実はラクなことだと思うんです。

 

期待に応えておけば、誰からも文句を言われることもなく、万人受けするような好意を得ることができる。

 

その反面、期待に応えることで、ある意味「自分はどうしたいのか」を考えることを怠ってしまっているんじゃないかなあって。

 

「期待に応えること=自分がやりたいこと」ならいいのですが、周りからの自分に対する期待が、必ずしも自分の望むようなものとは限らない。

 

そうなったとき、期待にすんなり応えて自分の本心を誤魔化すこともできれば、期待に応える前に、本当に自分が応えたいと思う期待なのか考えることもできる。

 

もちろん大企業で働くサラリーマンともなれば、社内で上司やお客様の期待に応えて一定の評価を得る必要があるかもしれません。きっとあるでしょう。

 

ただ、自分の意思をぞんざいに扱っていると、いつの間にか相手の期待にばかり応え続ける「パペット人形」になってしまう気がします。

 

さらに皮肉なことは、必ずしも周りはパペット人形が好きとは限らないこと。

 

だって、パペット人形は操る人がいないと自ら話すこともできなければ、当然観客を楽しませることもできない。

 

それに比べて、TEDはどうでしょう。

 

あ、心動かされるスピーチを行なっているTEDの方ではなく...

 

例の世界的大スターのくまのTEDですよ!

 

例がぶっ飛んでいるかもしれませんが、TEDって、どちらかというとわがままですよね。わがままというか、なんでも言いたい放題、好きなことをやりたい放題。

 

だけど、そんなTEDを日本人は憎んだでしょうか。世界の人々は憎んだでしょうか。

 

いいえ、愛しました!(あんなお下品なっと思っている方がいたらごめんなさい、でもなんとなく憎めないですよね、あのくまさん。)

 

何が言いたいかというと

 

好かれたり気に入られたりするために相手の期待に応えようとしているのであれば、そんなの必要ないんじゃない?ってことです。

 

無理やり相手の期待に応えようとしなくても、他の人よりも自分本位で生きていたとしても、人は案外受け入れて認めてくれる気がします。受け入れてくれなかったとしても、別にその人に受け入れられる必要はない。

 

「わがままに生きる」

 

これだけ聞くと、聞こえはあまりよくない気がしますが、漢字にしてみるとどうでしょう。

 

「我がままに生きる」

 

ちょっとかっこいい響きがありますよね。そのかっこよさの正体は、我がままの「我」に込められた、「周りを気にせず自分の信念に従って生きる」というメッセージにあるのかなあなんて。勝手に定義させていただいただけですが、ただのわがままは、自分の思い通りにならないと不機嫌になって周りに八つ当たりする人。真の我がまま(ちょっと語弊がある気もしますが笑)は、自分の思い通りに人生を謳歌したいと思っていて、思い通りにならなくても貪欲に望むものを掴みに行く人(かつ周りに八つ当たりしない人)。周りの期待に応える代わりに愚痴を絶やさない人より、我がままに生きてニコニコしてる人の方がなんだか人生楽しそうですよね。

 

あと、我がままに生きる人が素敵だと思う理由がもう1つあります。

 

それは

 

期待に応えたからといって、必ずしも好かれたり評価されたりするとは限らないこと。

 

「あの人のためにあんなに頑張ったのに」とか、「なんで僕/わたしはあんなに頑張ったのに、お調子者のアイツの方が評価されるんだ」とか

 

期待に応えようとすればするほど、期待に応えようと努力すれば努力するほど、努力が報われなかったときの虚しさは半端ないですよね。

 

相手が必ず自分を好きになったり評価してくれたりするとは限らないとわかった上で期待に応えようとするのであれば素晴らしい心意気だと思いますが、相手の反応によっていちいち一喜一憂するぐらいなら、誰かに依存しない、自分に向けた自分のためだけの「評価軸」を勝手に作っちゃえばいいのかなあなんて。

 

とにもかくにも、我がままに生きたいですね(え、違う?)。

 

III. 我がままに生きて出る杭になったら、周りの杭も誘ってみる

 

我がままに生きるって簡単に言うけど、そんなことしたら周りと衝突するんじゃないの?現実的に考えて大の大人が我がままに生きるなんて無理だよ。

 

そんな現実的なことを思ってしまったみなさん(大丈夫、わたしもそのうちの1人です!笑)。

 

確かに、我がままに生き始めましたよ、めでたしめでたし!!!

 

ってわけではなくて。

 

もちろん我がままに生きることにはちょっと面倒な側面もあって。

 

何かというと、我がままに生きていない人からの逆襲というかなんというか

 

さっきもちょこっと話しましたが、自分が真面目に生きていても評価されず、ちゃらんぽらんに見える他の誰かが評価されていると、

 

「自分はこんなに周りの期待に応えようと真面目に努力して生きてるのに、なんであの人はあんなにストレスフリーでやりたいことばっかりやってるのにうまくいくんだろう」って思うのかなあと。

 

だから、自分が今日この瞬間から「我がままに生きる」ことを実践したとして、もし自分の変化を咎めてくるような人がいるのであれば、もしかしたらその人は周りに合わせてなかなか自分の心ゆくままに行動できないことで悩んでいるのかもしれないですね(真相は神のみぞ知りますが)。

 

よく、言いますよね。

 

「出る杭は打たれる」と。

 

出る杭を応援するような環境にいるのであればこの上ない幸せですが、周りの杭が抜きん出ようとする自分を打ってこようとする。

 

杭たちが絶対の悪というよりは、取り残されるのが怖いだけなんだと思います(多分)。

 

だから

 

もし「出る杭は伸ばされる」環境にいるのであれば、自分を打ちにかかってくるハンマーや、揚げ足を取ろうとしてくる杭たちを、「一緒に出よう」と誘ってあげたらいいんじゃないかなって、なんとなく今感じました。「お先に~」と抜けがけするのもいいですが、いっそのこと「みんなで一緒に出て何かしようぜ!」ぐらいのノリで誘ったら気持ちよさそうですね(え、そんなことない?)。

 

この流れでいくとそうです、お気づきの通りです!留学に行って人が変わった、と母から言われたときはへこみましたが、もはや母も海外に連れ去りアメリカナイズ(わたしの場合はカナダナイズでしたが)してもらおうぐらいの心意気でいきます(母にももっと自分の気持ちに正直に生きてもらえるよう、母にも「我がまま」精神を植え付けます笑)。

 

うまく想いを綴れたかわかりませんが、土曜日の14:00に出社し、16時間働いたのちにやっと先ほど退社して今に至る(カフェでつらつらキーボードを叩くの巻)ので、そうなんです、寝不足なんです(寝不足のせいにしてごめんなさい)。なので末筆でも生あたたかく見守ってください(gracias, merci, ありがとうございます!大事なことなので3回言いました笑)。

 

最後に、最近思いついて大切にしている言葉を言い残して眠りにつきます。

"Don’t live up to expectations. Expect to live it up."

 

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